週刊 『クリスチャン新聞』 2012年1月1・8日号 =12面=掲載

『出来事の言葉・説教』

加藤常昭著(教文館、A5判、4,725円税込)

 本書との神学的な対話は、説教に取り組む牧師・信徒の目を醒まし、神学することの興奮を呼び起こす。本書はいきなり私たちの説教の核心問題を取り上げる。「説教とは生きておられるキリストにお会いするダイナミックな出来事である」(『説教の神学』リシャー)。この言葉をめぐる対話の現場に読者を招く。感動を呼び起こすピークがあり、聖霊が働かれて悔い改めが起こる説教を出来事としての説教だ、と私たちは考えやすい。しかし本書は「説教が始まれば、出来事が起こっている」と、今までの説教に対する常識を覆す。神の言葉である聖書を語り出す説教は、神の言葉の出来事がそこで始まっている。音が鳴り始めたときから音楽は出来事として起こり、クライマックスだけが出来事ではなく、音楽全体が出来事になっているように、説教は最初から出来事である。この主題をさまざまな角度から追究した500頁を超える大著であるが、説教をめぐる本書との神学的対話は飽きることがない。なぜなら読者は自分の説教理解の「ずれ」を随所で指摘されるからである。
 解釈と適用とを区別して生ずる「ずれ」。福音で始まった説教が律法主義で終わる「ずれ」。そこには、説教が生み出されるプロセスで、聖書の言葉が立ち上がり説教者自身に適用されてゆく説教黙想が起こっていない。自分を外において聴き手に適用しようとして、無意識に聖書の言葉を歪めてしまっている。聖書の言葉で聴き手を創造的に発見していない。この「ずれ」の指摘は核心を突く。伝道し教会を建てあげる説教とは何か。教理問答の教案から自由になる説教とは何か。新約聖書の語る説教とは何か。あるべき説教の言葉をめぐる神学的な対話は、「ずれ」を修正する対話である。
 日本のキリスト教会は、神の言葉のもとに立ち神の言葉に仕える職務に徹することができるかが問われている、と語りつつ、厳しい教会の現実の中で苦闘する説教者への深い慰めの書である。
(評・郷家一二三=日本ホーリネス教団委員長、坂戸キリスト教会牧師)
過去の本棚はこちら