週刊 『クリスチャン新聞』 2009年12月20・27日号 =21面=掲載

『出会いのものがたり』

大塚野百合著(創元社、2,100円税込)

 自分史にも様々な取り組み方があることを学べました。『賛美歌・聖歌ものがたり』(創元社)などの著者として、賛美歌研究家の面影が濃厚でしたが、本来は英文学が専門で、賛美歌については素人だと明かしています。誠実で熱心な探究心、小さなことでも出典を明らかにする著者の姿勢は、まず生ける神を目の前にしていること、次に読者への配慮から来ていることと思われます。
 1924年3月、長野県松本市で救世軍士官の二女として出生。父の失明で一家は上京。12歳年下の母は、5人の子育てをしながら、自給伝道の夫を献身的に支えます。少女時代、エバンゼリン・ブース(救世軍創設者の娘)の写真と出合い、その美貌と信仰にひき付けられてしまいます。どのような人物なのかもっと知りたい、との願いは58歳の時、イェール大学神学部留学の時実現します。その2年前に出版された伝記を読むことができたからでした。このように出会いを求め続ける中で、さらに神様が与えてくださるものだと教えられます。聖書物語、聖女テレジア自伝、福沢諭吉の『学問のすすめ』、H・ティーリケの説教、T・マートンの伝記、カルヴァンの聖書注解、羽仁もと子著作集など、数多くの生き方や滋味溢れる思想を、書物の宝から掘り出し身に付けられました。
 それだけでなく、生身の人間との出会いにより愛を吸収し、成長していかれました。恵泉女学園創設者河井道子、ノーベル平和賞受賞者J・R・モット、元東京女子大学学長の中野好夫と安井てつ、終生の友人たち。早稲田大卒業後、東京裁判の顧問翻訳官、関東学院短大講師に。米国クラーク大大学院でアメリカ史を学び、恵泉女学園大の教授を長く勤務。T・ボヴェー、P・トゥルニエ、M・クォスト、H・ナウエン、作家の阿刀田高夫妻、牧師の岡田茂孝、詩人の島崎光正諸氏との出会いが、自分にとってどのような意味であったのかが綴られています。豊かな人生の出会いを求める者の必読書といえるでしょう。

(評・池田勇人=日本同盟基督教団霞ヶ関キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年12月13日号 =5面=掲載

『神学とキリスト教』

神代真砂実ほか共著(キリスト新聞社、1,575円税込)

 某政党のマークに似た表紙は、神学とキリスト教学の関係をどう考えるかの仮模式図だ。本書はこれをより良く再構築するため、09年3月、日本基督教学会関東支部、日本組織神学会、聖学院大学組織神学研究センターの共催で行われた公開シンポジウム、「それは何であるのか―神学とは」における4人の発題と司会者のコメントを収録したものである。「キリスト教学」とは一般になじみの薄い用語だが、神学が教会の学、すなわち教会を場とし教会が必要とする学問なのに比べ、キリスト教学は信仰を前提とせず、諸学と同一地平でキリスト教を研究対象とする分野であり、「キリスト教の現象形態や思想内容を対象として、それを理性と実存の立場から理解し、解釈しようとする学問」(91頁)と定義されている。
 伝道の最前線で日々苦闘する者は、信仰を前提としないキリスト教研究に何の意味があるのか、と思いがちだが、一般の人々のキリスト教と出合う接点と考えるなら、本書を読み進める価値は十分にある。ただし、神学の規範性を否定するコメント者の見解(146―147頁)は批判的に読むべきであろう。本書の提唱する「三重の同心円」図式は、最内奥が神学、最外周が一般諸学、その中間にキリスト教学、キリスト教文化学、宗教学があるというイメージで(29、137頁)、中間層を突き抜けて神学の内実(福音の真理)を世に証しする弁証学や宣教学等をどう位置づけるかは、本書と異なり聖書の霊感と権威が前提かつ土台の福音主義に立つ読者に課せられた課題である。同時に、教会と世界との中間部分に位置すると本書が示すキリスト教学や関連諸学を、西欧と違いキリスト教的土壌のない日本という国で、宣教のためどう深め、いかに用いるかも重要なテーマであろう。
 教会に仕えつつ神学を営み、伝道者を教会に送り出す神学校、また幼小中高のミッションスクールで働き、ミッション系大学で教え学ぶキリスト者、それに関係する家族や教会の立ち位置を学ぶ書と見て取った。

(評・関野祐二=聖契神学校校長)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年12月6日号 =9面=掲載

『十九世紀のドイツ・プロテスタンティズム』

深井智朗著(教文館、3,675円税込)

 本書は狭い意味での神学書という範疇にとどまらない広がりを持っている。神学的言説を社会史的文脈の中に位置付けて解読し、同時に社会思想の形成の背後に神学的言説がどう機能したかを解明する、いわば「神学と社会の切り結び」の作業なのである。
 題材となる19世紀のヴィルヘルム帝政期ドイツは、教会史的には近世リベラリズムの時代と区分されるが、著者はこれを政治的リベラリズムと神学的リベラリズムと見極め、さらに神学的リベラリズムを「教会的でなく宗教的なキリスト教」とし、リベラリストの中にヴィルヘルム帝政期ドイツの支持者で国民国家形成に尽力した「リベラルなナショナリスト」と、これを批判し破壊する「ラディカルなリベラリスト」があったと指摘する。前者ではナウマン、ハルナック、トレルチ、ラーデなどの神学者、後者についてはキェルケゴールと初期バルトが考察されている。
 興味深い点は、ラディカルなリベラリストと位置付けられる初期バルトへの評価である。著者は19世紀リベラリストとは対極にあると思われるバルトをリベラリズムのラディカルな前衛と位置付け、バルトの徹底した神学的・政治的リベラリズム批判が結果的に神学の政治的機能をも失わせ、皮肉にも後のヴァイマール期を経てナチス第三帝国の台頭を許す素地を作り上げてしまったというのである。
 「バルトはこの破壊や崩壊の後に、来るべき政治的プログラムや社会システムの代案を提示したわけではない」。「代案がないということは、政治的にはこのヴィルヘルム帝政期の主要勢力崩壊後に何の見取り図も提示できないということであり、その点でバルトとその影響下にあったヴァイマールの神学者たちは政治的には極めて『稚拙な神学』を提示しただけ」…。この極めて刺激的な評価は、その妥当性の吟味においても、神学が正しい意味での社会性・政治性を獲得するために向き合わなければならない教会の課題でもあろう。

(評・朝岡 勝=日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年11月29日号 =9面=掲載

『ローマ人への手紙講解説教 下』

奥村修武著(キリスト新聞社、3,780円税込)

 本書は、故奥村修武牧師が東伏見福音キリスト教会で語られたローマ人への手紙の講解説教であります。上巻(1章から8章まで)はすでに2005年に出版されていますので、下巻の出版を楽しみに待っておられた方も多いことと思います。ローマ書9章から16章までの個所について97年7月20日から98年6月14日になされた31回の説教が下巻に収録されています。そして、各説教本文の最後には、説教の主旨に相応しい内容の祝祷が記載されています。
 本書では、口語訳聖書が本文として採用されていますが、口語訳に依存することなく、ギリシア語本文の釈義を土台とした骨太の説教であります(例えば9・5)。思わず唸らされ、考えさせられることが毎回の説教にあります。とはいえ、決して堅苦しかったり、小難しかったりする説教ではありません。安易な釈義に流れることなく、個々の聖書個所が提示する課題を深く考察する鋭さが読む者にビンビン響いてきます。パウロと現代、1世紀のキリスト教会そして21世紀の日本の教会、と懐古趣味に終わらず、現代の教会、今に生きる私たちキリスト者にしっかりと力強く語りかけてくれます。
 ローマ書9章から11章で同胞のユダヤ人たちが自らの福音宣教に応答しない現実とパウロは直面していますが、師は当時のイスラエルに現代の日本を、自らの同胞に対する思いをパウロの同胞に対する思いに重ね合わせています。パウロと同じく、奥村牧師にとっても、福音はただ魂に拘わる事柄ではなく、政治、社会全般に大きく影響する課題と考えておられることがわかります。
 9章冒頭は「痛みの相似形」、11章冒頭から「バアルに膝を屈めぬ七千人」と題して語っておられます。後者では、パウロからエリヤに、さらに内村鑑三の生き様に結びつけておられます。
 ローマ書が提示する難しい課題を避けることなく、明快に、平易に説き明かされている本書を、ぜひ一人でも多くの方にお読み頂きたいと思います。

(評・伊藤明生=東京基督教大学教授)
週刊 『クリスチャン新聞』 2009年11月22日号 =9面=掲載

『賀川豊彦 その政治的・社会的活動』

K・H・シェル著(教文館、2,730円税込)

 「日本をお救いください! 世界に平和をお与えください!」と、賀川豊彦は死の床で祈った。ドイツ人神学者のK-H・シェルは、この祈りに、「日本のためのキリスト」また「世界のための日本」という、賀川が抱いていたヴィジョンが集約されていると言う。
 本書は、賀川生誕100年の年に来日した著者が、ドイツ的学究スタイルに沿い、多岐にわたる膨大な資料に基づいて書いた、ハイデルベルク大学神学部の博士論文であり、良い訳を得て、一読に価する「賀川豊彦入門書」となったものである。「愛の革命家」の生き方に圧倒され、賀川から学んだことを実践しているシェルだが、彼を礼賛ばかりせず、多くの矛盾(例えば国家主義や被差別部落民問題など)を抱えていた賀川の素顔も描いている。序論の「日本の宣教史・教会史の展開」と、続く「賀川の活動の歴史的背景」を読めば、日本近代史の中で最も著名なクリスチャンのひとりも、激動の時代の子であったことが分かる。「伝記」部分では、日本の思想や宗教、賀川に洗礼を授けわが子のように愛した米国人宣教師、ラウシェンブッシュなどの社会的福音、著者の国の宣教師達や彼らの伝えた自由主義神学などの、賀川に与えた影響が概説されている。
 「神学・敬虔さ・教会のアイデンティティー」においては、明治、大正、昭和の教会史に大きな足跡を残した教会指導者の、霊的また信仰的特質が、数多くの賀川研究者たちの言葉と、彼自身の著作や詩などによって、浮き彫りにされている。本書のサブタイトルでもある、賀川の「社会的・政治的働き」に関する章を読む人は、賀川が、今日まで続く労働組合や農協や生協などの創設に深く関わっていたことや、ノーベル平和賞候補にもなっていたことなどを知って驚くだろう。
 「日本人としての賀川」と「評価と展望」を読んで、評者は、賀川の「日本のためのキリスト」と、内村鑑三の「日本はキリストのために」という祈りを比較検討せざるを得なくなった。
 
(評・後藤喜良=同盟福音基督教会可児キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年11月15日号 =9面=掲載

『キリスト者の平和論・戦争論』

信州夏期宣教講座編(いのちのことば社、1,260円税込)

 憲法改正の準備とされる国民投票法の施行を翌年に控え、憲法九条の危機が迫る中「キリスト者の平和論・戦争論」を問い直す5つの講演がなされた。岡山英雄氏は聖書学から、李象奎氏は初代教会の平和主義を、渡辺信夫氏は宗教改革以後の戦争観を、野寺博文氏は15年戦争下の朝鮮を、岩崎孝志氏は靖国思想を取り扱う。議論の共通点は教会と国家の関係だ。岡山氏はまず、旧約聖書の戦争を取り扱う。元々、イスラエル民族の戦争は人間の力ではなく、ただ神によって勝利する信仰の訓練だったが、王制導入時、軍事力を強化し王が戦争を指揮するよう変化していった(Iサムエル記8・19、20)。新約聖書からは、暴力の手段で独立運動を進める熱心党、それを武力で制圧するローマ帝国、その両者と鋭く対比されるキリストの平和(非暴力の国)を丁寧に読み解く。この平和主義は、初期の教会では軍服務拒否などの方法で継承されていった(李氏)。しかし、ローマ帝国によるキリスト教公認(313年)と国教化(380年)を転換機として戦争容認が起きてしまう。ここから中世と宗教改革期とを通じ、キリスト教国家主義が基本となっていくが、宗教改革期に再洗礼派の群れが現れ、国家からの分離と絶対平和主義の主張を「シュライトハイム信仰告白」で言い表した。渡辺氏はこれを吟味し、非現実的として退ける。評者はその議論を敬い、一方、J・H・ヨーダーなどの神学者のシュライトハイム信仰告白の精神を継承しつつ、現代の平和神学に多大な貢献をしていることを明記しておきたい。渡辺氏はカルヴァンの『キリスト教綱要』第4編第20章を紹介。これは積極的な戦争肯定論ではなく、戦争の無秩序な発動を制限する方法で戦争を抑制していると解釈される。
 私たちは平和のヴィジョンに生きるよう召されている。旧約の民がシャロームの実現を待ち望み、迫害下の教会が「小羊の勝利」を見つめたように。核廃絶が呼びかけられる時代、平和憲法を持つ日本のキリスト者は世界に何を訴えかけられるだろうか。

(評・宮崎誉=日本ホーリネス教団鳩山のぞみ教会牧師、福音による和解委員会委員)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年11月8日号 =9面=掲載

『神学と暴力』

小山 晃佑著(教文館、1,995円税込)

 本書は次の項目からなっている。1「神学と暴力」、2「 箱船から出なさい」、3 「テロと日本による朝鮮の植民地化」、4「 取引の枠を超える贖い」、5「 来るべき二十一世紀の神学教育、新しい天と新しき地」、6「 キリストの福音と地球史四十六億年」、7「行って同じようにしなさい!−賀川豊彦の辺境の神学」である。
 この項目からも分かるように、教会が逃げたいと思うテーマに正面から向き合った神学書である。神学的営みがどうあるべきかを教えてくれる著書である。良心の神学、実存の神学、罪の自覚のための神学である。
 神学が暴力の温床になった理由を明らかにしてくれている。知の独占が暴力の源泉であるという指摘は鋭い指摘である。「どの宗教でも真の神を十分に知っているのは自分たちだけだと主張するなら、ユダヤ教にしろ、キリスト教にしろ、イスラム教にしろ、原理主義者たちの宗教的暴力性を誘発する発火点になることを、わたしたちは忘れてはなりません」という指摘は、すべての宗教者の心に刻みつけなければならない指摘である。
 とくにキリスト者が肝に銘じなければならないことばである。愛の宗教であるはずのキリスト教が歴史において戦争と抑圧の加害宗教になってきたことを思う時、その土台に暴力性が潜んでいるという指摘は史的キリスト教の盲点となっていた。
 「無関心という始末に負えない暴力」の指摘も、真剣に受け止めるべきである。貧困と差別の現実を見て見ないふりをする冷淡さが生み出す暴力性への指摘、目に見える暴力よりも目に見えない暴力の方が始末に負えない巨大な損害を人間生活一般に加えているという指摘は、日本のキリスト者への鋭い忠告である。
 謙虚に耳を傾け、心を絞り出す信仰者に推薦したい。

(評・東條隆進=日本キリスト兄弟団弥生台キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年11月1日号 =9面=掲載

『ジャン・カルヴァンの生涯 上』

アリスター・E・マグラス著(キリスト新聞社、3,150円税込)

 原書は1990年の出版だが、カルヴァン生誕500年という記念の年に、本書が出版されたことを心から喜びたい。上下巻に分けての出版ということで、本書はその上巻にあたる。
 カルヴァンに関する伝記や評伝は多いが、本書の大きな特徴の一つは、「西洋文化はいかにして作られたか」という副題が示すとおり、中世末期から近代にかけての西欧文化形成とカルヴァンとの相互的な関係に焦点を当てていることである。資料を丹念に収集・解読することを通して、カルヴァンの知的、精神的成長の足跡が、文化的・社会的背景と関連づけて検証されている。特に、カルヴァンがジュネーヴに行き着くまでの、パリおよびオルレアン時代の体験と、人文主義との関わりについての記述は、当時の大学の様子と思想の流れの中でカルヴァンを理解することを可能にしてくれる。
 本書でマクグラスが強く意識しているのは、カルヴァンに関する根拠の定かでない「定説」を、資料的根拠と証拠に基づいて検証し、修正することである。膨大な資料を縦横に駆使して、できるかぎり公正な論証することを目指すマクグラスの特徴が、本書でも遺憾なく発揮されている。
 カルヴァンはしばしば、「心も情けもない人間」「ジュネーヴの独裁者」「血に飢えた暴君」とみなされてきた。本書はそうした評価がいかに根拠のないものであるかを明快に示し、特にセルヴェトゥス事件がカルヴァン非難のおもな根拠とされることの不当性を論証している。史的根拠と資料に基づいてカルヴァンの名誉回復をおこなおうとする著者の思いがよく伝わってくる。
 上巻は全体として、時代の枠組みと変動の中でカルヴァンがたどった成長と成熟の物語となっている。カルヴァンの神学と西欧社会の歴史的展開との関係を論述する下巻も楽しみである。
 芳賀力氏による歯切れのよい描写力に富んだ翻訳が、本書の価値をいっそう高めていることも申し添えておきたい。

(評・石田学=小山ナザレン教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年10月25日号 =5面=掲載

『現代人はキリスト教を信じられるか』

ピーター・L・バーガー著(教文館、2,625円税込)

 著者ピーター・バーガーは、「生まれから言うとルター派で、今でもルター派を自認している」(本書4頁)オーストラリア出身の米国の著名な社会学者(1929縲怐jである。本書(原著『信仰についての問い―懐疑を乗り越えて肯定できる信仰―』、2004年)は、「使徒信条」を12章に分割、それを解説する形から構成されている(補遺3節含む)。
 彼の学問方法論は「個人の生活史的視点」、すなわち、「生身の人間」が自分を取り巻く環境や、「社会的秩序」に対して、どのように考え、どのように「日常生活」を営んでいるかを、現実に今生きている人間の視点から進められる。本書において著者は、キリスト教が「世俗化・多様化・相対化」し、絶対的な規範性を喪失している状況のなかで、「日常」営んでいる自らの信仰のあり様を告白しつつ、キリスト教の何を信じ、何に同意できないかなどについて赤裸々に語っている。正直、「難解」な部分も多数あり、読みこなすにはかなりの知識を必要とする。しかし著者は、多次元化・相対化するキリスト教信仰について「懐疑をもって扱われねばならない」(238頁)ことがあるとしても、「マラナタ、主イエスよ来たりませ」と祈ることが出来る、と述べている(201頁)。
 著者の聖書や神学的知識の理解の深さ、キリスト教史全体にわたる神学者たちや信条に対する該博な知識にも驚きを禁じ得なかった。福音派の視点からすると、聖書論、史的イエス論や教会論などにおいて戸惑いをおぼえる個所も多々ある。しかし、本書の内容は、1人の社会科学者でありキリスト者が、キリスト教に「懐疑的」に向き合いつつ、信仰を「肯定的」にとらえている点において、味わい深い。
 訳書は、「訳者あとがき」にあるように、「自由で闊達な日本語」である。ちなみに、評者は、聖書の無謬性を信じるものとして「教育程度の比較的低い人々」(246頁)に分類される社会学徒のようである。

(評・村田充八=阪南大学経済学部教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年10月18日号 =12面=掲載

『二つの福音は波涛を越えて』

棚村重行著(教文館、7,140円税込)

 70年代、自伝的小説『ルーツ』が世界中で脚光を浴びた。アフリカ系米国人の著者アレックス・ヘイリーの家族の物語で、実話を基に脚色を施したものだ。18世紀アフリカ大陸で行われた奴隷売買の状況に遡ることを通し、当時まだ米国内に根強く残っていた黒人への差別意識がどのように形成されたかを伝えるものだった。そこにはその時代にあった世界の勢力図が深く関わっていたことに気づかされた。
 09年、日本プロテスタント宣教150周年を祝う私どもは、改めて歴史を学び直す絶好の機会となっている。わが国のプロテスタント宣教の始まりはどのようなものだったのか。その特徴の一つに「公会主義」がよく挙げられる。では「日本基督公会運動」とは実際はどんなもので、なぜそれは継続されなかったのか。これまで土肥昭夫氏、小野静雄氏など名だたる歴史家がその点を論じてきた。しかし、今回著者は本書で、独自の研究を経て異なった論点を示す。それは、その時代のキリスト教界の勢力図との関係だ。最初の宣教師たちの来日前から【2つの大きな流れ】が存在し、それが日本宣教の曙に大きな影響を与えたという指摘だ。具体的には、19世紀の英米プロテスタント文明世界にあった【旧派カルヴァン主義(教派主義)】と【新派カルヴァン主義(無教派合同主義)】の2つの福音理解で、それが「対抗運動」と「公会運動」という2党派構造に至ったと見ている。2種類の福音の種が蒔かれていた、という主張は非常に衝撃的だ。
 だが、著者の歴史的検証の目標は単なる事実の追求ではない。「どうしたら、この双子が共に共通の教派の建物、またそれを超えてひとつの『神の民』の大きな交わりの中に生き、相互理解に努め、新たな自己意識を確立し、共通の一つの使命のために働くことができるか…これが日本のプロテスタント、更には東アジア・プロテスタント諸教会の課題となる」とし、負の遺産の本当の原因を知り、それを克服することを願っている。歴史書愛好家にとって真に歯ごたえのある一書だ。

(評・具志堅聖=日本福音同盟総主事)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年10月11日号 =5面=掲載

『ニカイア信条・使徒信条入門』

F・ヤング著(教文館、1,680円税込)

 仮に教理史や教会史などについて基本的知識の少ない読者が、「入門」という表題に惹かれて本書を読み始めたとしたらどうであろうか。おそらく、直ちに本書を読むのをやめてしまうことになるであろう。そう述べる最大の理由は、本書が決して入門書などではないからである。本書は、ある程度の神学的教育を受けた者には理解できても、ニカイア信条や使徒信条を文字通り入門的に学びたいという者にはかなり敷居の高い「神学論文」である。訳者が原題を直訳して『諸信条の形成』と訳者あとがきで紹介しておられるが、少なくとも邦題としてはその方がふさわしかったのではないかとさえ思うほどである。
 とは言え、今日の諸教会が共に告白する2つの信条が形成される過程で、どのような神学的論争がなされたのか、否どのような神学的論争を経て信条が形成されていったのかを議論する過程は興味深い。
 また、どちらかと言えば、キリスト論に傾きがちな(これはきわめて当然のことであるが)教理史の分野において、「聖霊と聖なる公同の教会」について1章を割いて丁寧な議論がなされていることは有益である。「聖なる公同の使徒的教会」が「御霊の『活動領域』を表している」との指摘は、御霊の働きを軽視しがちなグループにとっても、また御霊の働きを個人の領域に限定しがちな人々にとっても、聞くべき示唆であろう。
 近年日本の福音派においても、教会の公同性について触れられることが多い。この面からしても、基本信条の中核をなすニカイア信条(正しくはニカイア・コンスタンティノポリス信条)と使徒信条について、我々が認識を新たにし、理解を深めていく努力は必須である。本書はその意味で重要な役割を果たすのではないだろうか。
 ただ翻訳者の努力に多大な敬意を払いつつ、なおかつ評者の力量不足もあって、文意を把握するために同じ個所を何度か読み返す必要のあるところが数か所あったことは残念でならない。
 
(評・大井満=日本キリスト合同教会板橋教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年9月27日号 =9面=掲載

『情緒的に健康な教会をめざして』

ピーター・スキャゼロ著(いのちのことば社、2,520円税込)

 ニューヨークの教会の牧師であるスキャゼロは、教会分裂と夫婦の危機を経験し、リーダーの情緒的健全さが教会の霊的成長に与える大きな影響に気づかされた。そこで、これまでのリーダー論が無視してきた情緒的要素に目を向ける。ものの見方を根底から変えるという意味で、これを「コペルニクス的変革」と呼ぶ。
 本書の中心は情緒的健全性の鍵となる6つの原則である。原則の第1は、自分の内面を深く探り、本当は何を感じ、なぜ特定の行動パターンをとるのかを正直に見つめることである。第2は、自分の育った家庭を理解することで、過去の情緒的束縛から自由になることである。第3は、自分の弱さや不完全さを、乗り越えるのではなく、抱えたまま生きることを学ぶこと。第4は、自分と他人のあいだの境界線(バウンダリー)についてで、自分の責任と他者の責任を明確にすることである。第5は、悲しみや喪失の痛みを取り除こうとするではなく、受け入れることによってもたらされる成熟について。第6は、キリストの受肉にならって人を愛すことである。イエスが人となり、人間の世界に入ってきたように、自分を見失わずに、他者の世界に自分の身を置くことで、「二つの世界にまたがる」方法が述べられている。
 どれも読むと、なるほどと思わされる。しかし、それだけでは「コペルニクス的変革」は起こらない。頭で読んだだけでは本書を理解したことにならないからだ。正直に心の声を聴くという修練をしなければ、知と情と霊性の統合はない。だが、知性偏重の世界に生きる者にとっては、これがいちばん難しく、ときに痛みをともなうプロセスを通らなければならない。だから、スキャゼロは、導いてくれるメンターと忍耐、そして祈りの重要性を最後に強調しているのだろう。
 能力ではなく、いわば情緒力でリーダーの資質を測り、大きさではなく、情緒的成熟に教会の成長を求める異色の実践的教会論である。

(評・大塚寿郎=上智大学文学部教授、浦和福音自由教会会員)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年9月20日号 =9面=掲載

『ロイドジョンズ ローマ書講解』

D・M・ロイドジョンズ著(いのちのことば社、4,200円税込)

 D・マルティン・ロイド・ジョンズ博士(1899〜1981)(ロンドンではジョーンズと呼ばれていました)の講解説教の翻訳シリーズに、今回、『ローマ書講解5章』も加えられたことは大きな喜びです。
 著者の講解説教のシリーズのなかで、このローマ書の講解はエペソ書の講解と共に、最も包括的な内容の講解説教となっています。ローマ書の説教は、1955年10月7日から1968年3月1日までの12年を超える長期にわたり、373回をもって終わったものです。当時この講解は、連続して毎週金曜日の夜になされました。
 「信仰による義認の結果として生じる『神との平和』を…神の側からと人の側から眺めることにしたい」(38ページ)というのが、この5章全体を通しての著者の意図です。この平和が成り立つためには、「神の怒りという啓示された事実に対して、何かが起こらなくてはならない」(40ページ)と語り、主の十字架により、「神が愛を至高の仕方で明らかに現している」(207ページ)ため、それが神との和解となり、「神を愛し始める」(262ページ)ことになることを指摘します。
 著者は、当時すでに出席者が激減しつつある傾向にあった諸教会について、その原因は、礼拝の説教にあり、福音が語られていないことに原因があることを指摘しておられました。
 評者は1964年に説教を聴く機会に数度でしたが与りました。礼拝後に助言をいただく機会もあり、IVF(Inter Varsity Chistian Fellowship)のO・バークレー博士に会うよう勧められました。
 会堂は1階が説教壇に向かって座り、2階と3階は説教壇を囲むように見下ろす座席になっていたのは、現在も同じです。当時、3階の座席は学生や若い人で占められていて、説教を熱心にノートする姿は印象的でした。主の日の朝の礼拝には2,000人近い出席者ではなかったかと思います。

(評・鈴木英昭=日本キリスト改革派教会引退教師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年9月13日号 =9面=掲載

『なぜ日本にキリスト教は広まらないのか』

古屋安雄著(教文館、1,470円税込)

 本書の主張は巻頭論文の「新しい時代の宣教ビジョン」に明白に出ている。日本の明治初期の教会は、ピューリタン的な信仰を強調した米国人宣教師と儒教的な倫理観をもっていた下級武士との「幸いなる偶然の一致」があってスタートしたという。従って日本の主流教会は「難しいことを語る」ところとなった。庶民には敷居が高くて受け入れられない体質ができた。まず「教会と社会の二元論」を乗り越えることだ。それには「神の国」の福音を説教すること、そしてそれを伝道運動にも社会運動にも実践した賀川豊彦を見直すことである。賀川はまず貧しい人々に伝道したからだ。
 また(主としてNCC系)教会に若者が来なくなった。かつて教会は若者で溢れていたところであったはずなのに。ミッションスクールで宣教の力が弱まったのは、戦時中に(旧日本基督教団で)バルト神学を受け入れたことと大いに関係している。しかし、バルト自身はバルメン宣言などを通して社会的実践も強調したはずであったのに、その方面は切り捨ててしまった。これらの言説は現在のNCC系教会の衰退を自己批判した内容である。
 さて、今年は賀川献身100周年の年でもある。だから、賀川についての諸論文が多く収められているのは時宜を得ている。彼の説いた「神の国」は聖書にあるように「ケリュグマ」(伝道)、「ディダケー」(教育)、「ディアコニア」(奉仕)を含んでいるからだ(本書141頁)。そこで「キリスト者と社会福祉」という章も含まれていて、この方面の戦後の代表者・阿部志郎氏の働きがきちんと評価されている。
 NCC系教会の伝道不振という現実から、著者はかねてより福音派への期待が大きかったのだが、本書にもそれが表れている。特に、阿部志郎氏は08年に東京基督教大学(TCU)が福祉専攻学科を創設した時に開講記念講演をされ、「福祉の伝道者」とも称される人物である。福音派の人々にも今後の宣教戦略への大きなヒントが与えられる本である。

(評・稲垣久和=東京基督教大学国際キリスト教福祉学科長)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年9月6日号 =5面=掲載

『キリスト教養育』

H・ブッシュネル著(教文館、4,410円税込)

 表題は、『キリスト教養育(Christian Nurture)』、ホーレス・ブッシュネルによる代表作だ。1861年発刊当時は、ブッシュネルの人間性(堕落)の理解、および親の責務としての幼児洗礼などの考え方について痛烈な批判を巻き起こした問題の書であったようだ。神学的な立場によっては、気になる筆致も多いかもしれないが、聖書教育、いわゆる家庭での信仰の養育に警鐘を鳴らす書としてこの古典が訳出されたのは、繰り返す歴史の要請であろう。
 今日、子どもの聖書教育の場はともすると教会学校と受け止められているのではなかろうか。統計数理研究所の調べでは、日本人の宗教心には年齢効果があると言われる。つまり若い時に信仰を持つよりは、年を取れば取るほど信仰を持つ人は増え、その際に選ぶのは家の宗教であると分析されている。キリスト教宣教150年の歴史の中で、キリスト教人口が相変わらず1%を超える積み上げがなされないのは、家庭における信仰の養育がおざなりにされてきたことを暗に意味してもいないだろうか。
 ブッシュネルは、「子どもはクリスチャンとして成長すべきであって、それ以外の者として決して自分自身を知るべきではない」と言う。青年期での回心に焦点を合わせた教育ではなく、小さな教会である家庭での長期にわたる救いに向けた教育にこそ注意を向ける。確かに現代の複雑な社会においてもなお、親の決定的な影響力は否めない。また救いは性格改造ではなく新生であるとしても、両親自らが家庭において神と共に歩むこと、また神の愛をもって子どもを温かく優しく養育する中でそれはいつでも期待されなくてはならないことだ。Christian education(教育)ではなく、Christian Nurture(養育)と表題された点に、他者の積極的なかかわりを必要とする教育の担い手、つまり養育者の姿勢が問い直されている。信仰継承の鍵は親にあり、教会と家庭の一致および、教会と家庭の協力が、子どもの魂の救いと成長に欠かせぬことを古きに学ぶ。 

 (評・福井誠=日本バプテスト教会連合玉川キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年8月30日号 =9面=掲載

『ヨーロッパ宗教改革の連携と断絶』

森田安一編(教文館、2,940円税込)

 ジャン・カルヴァン生誕500年にあたる本年、「ルターの首引き猫」などの多くの著書や訳書を通して日本の宗教改革史研究、スイスの研究を牽引してきた森田安一氏が日本女子大学を退官した。森田氏は本書の編者である。日本の宗教改革研究を、特定の人物や教派の英雄視からくる検証されていない前提から解放し、宗教改革の実際の進展の過程を記述しつつ考察を加えるという、森田氏の今日的な学風は、本書の執筆陣である「宗教改革史研究会」の次世代の研究者たちに確かに受け継がれているようだ。
 宗教改革を機にヨーロッパは中世から大きく近世社会に変容する。その大波の中で大小様々な運動が歴史上に浮かび上がる。本書のテーマはそれらの諸運動がどのように連携し、なぜあるものは断絶していったのかの具体的な解明である。
 手に取ってみると文末脚注の詳しい学術書であるのだが読みやすい。内容の統一性と多様性のバランスがよいからであろう。連携と断絶というテーマが、宗教改革の広い関連分野全体を3部16章に区切って検討されている。資料に基づき連携・断絶の背景や動機が学術的に、かつ人々の人物模様が浮き出るように述べられている。第1部の5つの論文ではルター派、急進派、カルヴァン派、英国、そして宗教改革後期の改革運動が、第2部の6つの論文では宗教改革期に形成された信仰共同体や開催された教会公会議、信条による分裂阻止の一致の試み、経済的側面や亡命者や異端者の取り扱いが論じられている。第3部の5つの論文は改革継続の隠れた前提であった言論の自由について、にせ巡礼の取り締まりの問題、女子教育の指針と実際、教会儀式や伝統への態度、宗教改革研究の傾向と問題点などが意欲的に論じられている。
 宗教改革の始まりと継続の原動力である確信を表現した「信仰告白」や「信条」は変更されてはならない。しかし今日の教会は目を開いて改革の定着のために先人が選択した具体策を辿る必要があろう。

 (評・正木牧人=神戸ルーテル神学校校長、西日本ルーテル西神教会協力牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年8月23日号 =5面=掲載

『有事法制下の靖国神社』

西川重則著(梨の木舎、2,100円税込)

 日本での「政教分離の侵害を監視する全国会議」事務局長の任を負う西川重則氏が、この度『有事法制化の靖国神社』というすばらしい本を出して下さった。1999年8月の野中発言から2008年11月の田母神発言にいたる10年余、国会本会議や委員会の傍聴を通して見えてきた状況や問題点を、丁寧に、わかりやすく報告しておられる。
 著者とほぼ同世代の私は旧制中学時代、学徒動員にかり出された軍国少年だった。敗戦後、靖国神社が日本の軍国主義の精神的支柱としていかに大きな役割を果たしてきたかに驚き、憤りを覚えた。
 戦後の混乱の中で、新しい日本の進むべき道として平和憲法が生まれたとき、本当に青空を見る思いだった。この憲法はある意味で、310万の日本の戦没者のみならず、2、3千万ともいわれるアジアの人々の犠牲の上で制定されたとも言える。
 「キリスト者であり、戦没者遺族の一人でありながら、長い間ノンポリの生活を送っていた私を変身させたのは、戦後最大の悪法といわれる靖国法案の国会提出だった」と著者は記しておられるが、私も全く同じだった。
 あの時以来「靖国神社国営化反対」と、それに続く同質の動きに反対して39年間、毎月小さなデモ(女性と子どものデモ)に参加している。
 戦前戦中において、靖国神社と軍隊が結びついてつくった神権天皇制、国家神道体制の誤った歴史を繰り返さないため、憲法20条(信教の自由、政教分離)の規定を決して見失ってはならない。
 西川氏はこのことを、国会傍聴記の事実を通して、私たちが聞き流した多くの問題発言の関連に注目させて下さった。祖国が再び逆コースの道を歩まないために、具体的継続的に「平和を創り出す」戦いの一端を私たちも担い続けねば…との思いを新たにさせられた。皆様に是非この本を読んでください。

 (記・熨q謙次=「政教分離の会」幹事)


週刊 『クリスチャン新聞』 2009年8月16日号 =9面=掲載

『日韓キリスト教関係史研究』

徐 正敏著(日本キリスト教団出版局、5,670円税込)

  本書は、戦時下日本の教会がどのように「国家適応教会」と化したか、そこに潜在し続けた脆弱さとナショナリズムについて日本基督教団の成立に至る過程において考察する。しかも、自ら「政教癒着」を脱しえないのに、日本のせいで亡国の憂き目に遭っている祖国と共に戦う朝鮮の教会を「忠軍愛国教会」、「ユダヤ主義を脱せぬ偏狭な愛国心教会」などと揶揄する日本の教会の「幼稚」さを、著者は醒めた視点で的確に指摘する。
 堤岩里虐殺への斉藤庫三の「懺悔の詩」について、「復讐も鬱憤もただ優しき愛に収め祈れよ」などと「『懺悔』よりも『和解』を先に語」るとは何たる「愚か」な言い様かと怒りをあらわにする。「少なくとも彼自身…加害者の立場にある以上、性急に口にしてはいけない言葉である。加害者がこのようなキリスト教的和解と昇華を語るならばそれは高潔で真の愛に至る方法でもあるが、血も乾かないうちに加害者側から復讐と鬱憤をキリストの愛で収めよという勧告が果たして妥当性のある表現であろうか」。そして、「日本による謝罪の形式や被動的な『ジェスチャー』」を見る時、日本の戦後処理には「真の懺悔と行動が欠けている」と容赦ない。こうした日本の教会の偽善性は、被害を受けた側から糾弾されなければ気付きにくい。その意味で、我々にとって貴重な指摘である。
 結局、以上のような問題を踏まえた上で両国の教会は「和解」と「連帯」を模索することになるのであるが、著者は、日本の教会の一部が靖国問題に取り組み、韓国に教会史を学びに来る者がいるなど一部の良心的な「懺悔」活動が敗戦後にあったことを評価することも忘れない。そして、「私たちは『日本』全体が、そしてそのすべての人々が懺悔するのを待つのか。その中に少数の義人がいるのなら、私たちが先ず彼らを赦そうではないか」と呼びかける。重い日韓の教会「関係史」に日本側の膨大な資料を駆使しながら挑んだこの大変な労作は、「韓流」で盛り上がる前に我々が読んでおきたい1冊だと思う。

 (評・野寺博文=日本同盟基督教団赤羽聖書教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2009年8月9日号 =5面=掲載

『ダビデのように』

マックス・ルケード著(いのちのことば社、1,890円税込)

 イスラエルの国旗に描かれた、三角を2つ重ね合わせた青い六芒星はこう呼ばれる−「ダビデの星」。
 本書で語られる「ダビデ」とは、このイスラエルの偉大な2代目の王。ミケランジェロ作の彫刻、ダビデ像でその名を知る人も多いだろう。彼は、竪琴奏者として初代サウル王に寵愛された音楽家であり、「サウルは千を打ち、ダビデは万を打った」(Iサムエル記18章7節)と称されたほどの戦士であり、詩篇の作者として名高い吟遊詩人でもあった。「新約聖書は彼の名前を五十九回挙げている。…神のみ子はダビデの子と呼ばれるようになる」(35頁)
 だが著者はダビデについて、「地図のシミみたいな小さな町で卑しい仕事をする、なんの資格も与えられていない忘れられた子どもにすぎなかった」と語る。ベツレヘムの片田舎で羊の番をする、8人兄弟の末っ子。のちに、サウル王から王座を狙うものとして追われたときは逃げまどい、嘘をつき、居場所を失って絶望し、王になってからは立場を利用して不倫と殺人の罪を犯し、それを隠蔽しようとした。また、子どもたちの抱える問題と向き合うことを避け、後悔を重ねたダメな父親。弱さや恐れをもち、失敗を繰り返し…、それでも彼は神に愛された。なぜか? 本書はそのわけを教えてくれる。
 話し言葉の文体で書かれ、読みやすいようにエピソードやジョークも満載だが、アメリカの習慣や歴史、地名、ダビデについてよく知っていることなどを前提とした表現も多く、日本人には逆に分かりにくい部分もあるかもしれない。聖書(Iサムエル記16章〜)と併せて読むと、より深く理解できるだろう。
 かつて神に見いだされた頃、ダビデは誰もが恐れて尻込みした巨人ゴリヤテと戦い勝利した。幼い少年が持っていたのは、手のひらの5つの石だけ。「ダビデは五つの石を拾った。彼は五つの決断をした。ぼくたちも同じようにしよう」(260頁)。  ダビデの生き方は、「巨人ゴリヤテ」(家庭問題、支払えない請求書、病気、忘れられない過去など)、乗り越えられないと思うさまざまなものに打ち勝てるのだ。


週刊 『クリスチャン新聞』 2009年8月2日号 =9面=掲載

『生きるための教育−−教育人間学とキリスト教』

東方敬信著(教文館、1,890円税込)

 このような本を日本語で読めるようになったことは、まことに喜ばしい。Christian Education(キリスト教教育)の分野では20年位前から発達心理学を取り入れ、人の成長に関して教育学的理解が深められた。特に知的発達と道徳性の発達、あるいは信仰の発達などが論じられるようになった。有益な議論がなされていると感じる一方、道徳性やキリスト者の成長を教育学の観点のみで論じられることに違和感を覚える人々も少なくなかったであろう。この違和感はこれらの主題がキリスト教神学の中心主題にも関わらず、日本においては神学的に適切な検証もされずにいたため、どのように受け止めて良いのか、また判断の根拠をどこにおけば良いのかという戸惑いのようなものがあったように思う。そのような必要に応えるため発達心理学、そしてキリスト教教育を神学の側から考察したのが本書だ。
 著者はピアジェ、コーバーグという発達心理学、そしてファウラーの信仰発達理論について「物語の神学」(Narative Theology)の観点から的確な批判を加えている。コールバーグに対しては、形式主義的道徳性に陥る危険性を指摘している。ファウラーに対しては、信仰理解が認識論に偏っていることを指摘し、彼の神学的な背景と実際的な問題点をローダーとの対比の中で明らかにしている。
 また、本書は批判でとどまらず、ハワーワスに代表される「物語の神学」の立場からキリスト者のキャラクター形成を目指すキリスト教教育の目的論的構造を明らかにし、神学的な展開を繰り広げて、教育、倫理、そして神学を結び合わせつつ、人を生かすキリスト教教育の在り方を提示している。この点において、内容豊かな神学書となっている。
 最後に著者の神学的な立場は福音派とは必ずしも一致しないので、読者は自らの神学的な立場を意識しつつ読むことをお勧めする。その上で本書を読み、神学的な議論を深めていく時、真に有益なキリスト教教育のガイドブックとなりうる書物であろう。

 (評・岩上祝仁=インマヌエル久留米キリスト教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2009年7月26日号 =5面=掲載

『ウェスレー聖餐論』

坂本 誠著(教文館、1,995円税込)

 坂本誠氏は、日本ナザレン教団小岩教会牧師、ナザレン神学校教授を務めながら、広く日本の神学会に貢献し、特にウェスレー研究にあっては日本で最も意欲的かつ主導的な研究者である。氏は多くの論文を数々の研究誌に発表され、本書はその集大成としての様相を呈している 。
 聖餐論は、これまでも氏の専門分野であり、聖餐が礼拝とキリスト者の生の中心として注目される時代、また未受洗者陪餐が論争になる昨今、本書を手に取る牧師は多い。
 ウェスレーの聖餐論プロパーのために、まず第2章「ウェスレーの聖餐論研究史」に目を通してほしい。ボーゲンやラッテンベリーらと共に、米国ナザレンの神学者らの主張が的を射て説明され、坂本氏がどのようにして聖餐論の課題を構築していったかがわかる。
 ウェスレーの聖餐論の中身を実質的に確認したければ、第3章「ウェスレーの聖餐論」を見てほしい。坂本氏は立教大学博士課程の学びの時に、英国国教会のジェレミー・テイラーの聖餐論を研究され、プロテスタント教派の中で聖餐を最も重んじる聖公会の豊かな聖餐論の中でウェスレーがどのように位置づけられるかを本格的に論じている。
 神学・霊性・実践の統合の中で聖餐をとらえようとするとき、第4章「ウェスレーのプラクティカル・ディヴィニティ」には大いに啓発される 。
 そして、注目すべきは本書の副題ともなった第5章「宣教のわざとしての聖餐」である。聖餐は、ウェスレーが率いたメソジストは18世紀英国の信仰復興運動の要であった。ウェスレーは野外での説教だけでなく、数百人、時に千人以上の人々を相手に聖餐を実施している。弟チャールズが作詞した聖餐の賛美を歌いながら、大衆が十字架の恵みを神学的に理解し、そのあらゆる恵みを伝達する手段としてウェスレーが聖餐を用いていた様子が生き生きと描かれている 。

(評・藤本満=インマヌエル高津キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年7月19日号 =9面=掲載

『ルターの霊性思想』

金子晴勇著(教文館、2,940円税込)

 「霊性」について多く論じられている。モダニズムが内包していた人間の自己疎外が露わになったからであろう。
 本書は、著者が『ルターの人間学』(1975年・創文社刊)で公にした諸研究成果を踏まえ、「無神論とニヒリズムが深く浸透し」(27頁)、近代の「個人主義と合理主義」の影響によって「損傷を受けた」「霊性の復権」(299頁)の道を、「霊性」を核としたルターの人間学的洞察に求めようとした著作である。
 著者は、これまでもっぱら教義を中心として論じられる神学(「教義神学」)に並んで「人間の霊性にもとづく神学思想」としての「霊性神学」があり、それは「神の言葉を受容する人間の側の能力を考察することによって成立する」と、本書の展開を基礎づけている。無論この「人間の側の能力」は、キリスト教信仰に限定されない。それは、「自然的(本性的)な霊性」(27頁)の意であって、洋の東西を問わず、「厳に働いている」(308頁)のである。そしてルターこそが、欧州の霊性史において、初めて「自然的な霊性」(戦慄的神経験)から区別して「キリスト教的で神学的な霊性」(救済的神経験)を論じたとされる(27頁)。
 ルターの霊性理解は、中世の、特にドイツの神秘主義の流れを汲みつつ(「霊・魂・体」の三分法「霊・肉」の二分法なども含めて)、それが彼の「義認論」に反映さている。それは「受動的義」を核とするものだが、その義を受容するのは「人間における霊性の受容機能」なのである(171頁)。しかもそれは、受動的であるにとどまらず「生活の全面的変化」をもたらし(173頁)、能動的な「倫理の出発点」となる(174頁)。そしてルター的福音理解よるキリスト教的霊性に「目覚め、喜びをもって愛に励むなら」、現代的世俗社会の危機を「克服する希望をもつことができる」と結論づけられる(251頁)。
 現代的状況の中で深く霊性を考える手引きであり、ルター神学の現代的展開の書でもある。

(評・橋本昭夫=神戸ルーテル神学校教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年7月12日号 =5面=掲載

『福音のためのインサイダー』

J・ピーターセン、M・シェイミィ著(国際ナビゲーター、1,790円税込)

 未伝地に最初に福音を伝える人は、文化の外からやってくる「アウトサイダー」だ。アウトサイダーなしには、福音は文化の壁を越えて伝搬しない。ルカの福音書10章で、弟子たちは見知らぬ町に派遣された。「出される物を食べなさい」(7、8節)という命令は、異文化宣教に関する重要なガイドラインである。
 ところが、その宣教が未伝地で実を結ぶかどうかは、文化内に生活する「インサイダー」が、アウトサイダーによってもたらされる平安を受け取るかどうかにかかっていた。派遣された弟子たちを福音伝搬の端緒を開くセルモーターとするなら、平安の家をセルモーターのモーションを受け継いで動きだすエンジンに例えることができる。
 セルモーターだけで車を動かそうとするなら、たちまちエンストするだろう。日本宣教停滞の主因は、「モーションが多くのインサイダーに浸透して、エンジンとして自律的に動き出すことを目指す」というビジョンが欠落している点である。たいてい最初の回心者たちは、自然な人脈から切り離されて、ムーブメントの触媒として機能することができなくなる。
 回心者たちを宣教者の文化へと引き抜かないで、すでにその人がもっている独自の人間関係の中に留め置き、神の国の市民として生きることを励ます。すると人々は、回心者たちの生き様を通して神を見るようになり、個人のみならず人脈全体が救いに導かれていく。この古くて、シンプルな教えを、教会はもう一度受け止め直す必要がある。
 後半は、インサイダーとして生きるための具体的な手続きが説明されている。働きの現場で、聖書の光に照らされて導きを受け取るというプロセスを経ているため、リアリティーと説得力がある。訳語はこなれて読みやすいだけでなく、適切な訳注が挿入されている。本書が多くの人々に読まれることにより、教会と社会、教会と宣教団体、教会と家族の再統合が進むことを期待している。

(評・福田充男=福音宣教シンクタンク『RACネットワーク』代表、キリスト家族教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年7月5日号 =9面=掲載

『キリスト教倫理』

泉田 昭著(いのちのことば社、3,780円税込)

 目まぐるしく変化する現代社会。生殖技術、死刑制度、戦争の是非などに対し聖書からの指針を求めるクリスチャンもいれば、一方で倫理的な是非を問うこともなく、医師の指導通り、ベルトコンベアーに乗せられるように、より高度な不妊治療へと進んでいくクリスチャン夫婦たちもいます。本書は真摯に聖書的な倫理を求めている方にも、功利主義に傾き、倫理を問うことを忘れかけている方にも、お読みいただきたい良書です。
 私なりに美点を挙げるとすれば、「平易」「最新」「日本的」という3つの言葉に集約できそうです。
 まず、「平易」です。著者が神学校で教えたキリスト教倫理の講義ノートをベースとしているので、内容は本格的な神学書です。しかし、決して難解さを感じさせず、私自身も読み進むうちに、いつの間にか神学書であることを忘れてしまった程です。教職や専門家に限らず、幅広い方々に自信をもってお勧めできます。
 また、「最新」です。科学と医学の目覚しい進歩に伴い、最も倫理的な判断が迫られているのは生命倫理の分野です。著者は「聖書は生命についてどのように啓示しているか」から始め、人工授精、遺伝子操作、クローニングなど近年の倫理的な課題にも向き合い、責任ある指針を示しています。他の分野においても最新の課題を取り上げているのは大きな魅力かと思います。
 さらに、「日本的」です。最も文化的な差異が生じやすいのが家族の倫理です。著者は日本家庭独自の課題を指摘しつつ、聖書的で優れた引用を用いて現実的な指針を与えています。これは、日本人の著者だからこその美点として高く評価したいです。
 聖書信仰に立つ日本人が、分かりやすい母国語で聖書の倫理を示し、今、私たちが直面する具体的課題に指針を与える書物の出版と言えるでしょう。「普遍的でありながら、現代日本にフィットする倫理学書」として親しんでいただければと願います。

(評・水谷潔=小さないのちを守る会代表)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年6月28日号 =5面=掲載

『和解を紡いだ12年「戦争責任告白」からの歩み』

日本ホーリネス教団福音による和解委員会編(同教団、2,100円税込)

 『日本ホーリネス教団の戦争責任に関する私たちの告白』が発表されたのは、1997年のことでした。戦後50年(1995年)を期して、この国のほとんどの教派がなんらかの仕方で戦争責任を表明していましたので、出遅れという印象がありました。
 しかし日本ホーリネス教団の場合、そこからの歩みが他の諸教派と大きく違っていたのです。ただ一片の声明文を発表するだけにとどまらず、その実質化、内実化への継続的な取り組みが始まったのでした。それは、教団内の諸教会に「戦争責任告白」の意義を周知する様々な広報活動であり、教案誌に分かりやすくこの問題を解説する連載です。
 さらに戦時下の旧六部・九部に対する弾圧に同調した側の日本基督教団との対話と交流の開始であり、同じ流れを汲む基督兄弟団、基督聖協団との和解と対話への取り組みでありました。さらにそれは、沖縄やアジアの諸教会との交流へと拡がっていったのです。
 本書は、日本ホーリネス教団の戦争責任告白以降の様々な取り組みを紹介する資料集です。機関紙「リバイバル」に連載された「和解委員会」のコラムに目を通していましたが、今回その全体に目を通して、粘り強い取り組みに改めて敬意を覚えました。
 1986年、日本基督教団第二四回総会で「旧六部・九部教師及び家族、教会に謝罪し、悔い改めを表明する集会」を実施した時のことを想い出します。その下働きをしながら、このような一過性のイベントには内心批判的でありました。しかしこの集会に参加して下さった元教職やそのご家族たちが、和協分離以来50年ぶりの再会に涙を流して喜んでいる姿を垣間見て、やはり謝罪の表明と具体的な交流から始めなければならないことを改めて教えられたのでした。
 ある意味では大変地味なこの資料集が、さらに用いられ、「福音理解の深みを目指して」深化されることを心から期待しています。

(評・戒能信生=日本基督教団東駒形教会牧師、前教団史資料編纂室室長)


週刊 『クリスチャン新聞』 2009年6月21日号 =9面=掲載

『ライフスキルで人生を変える』

丸屋真也著(いのちのことば社、1,575円税込)

 著者はカウンセリングの臨床家として、人が「順調であったとき、すでに、困難に発展するような問題の種が芽生え始めている」ことを感じるという。だから、もっと早く気づいて、その芽を早いうちに摘むことを勧める。本書はこの予防的な観点に立ち、人生を生き抜く力(人生力)をつけておくことを提唱する。
 そこで著者は、聖書に堅く立って具体的な助言を述べていくのであるが、観念的すぎることもなく、情緒的すぎることもない。実に冷静に実際的に論を展開していく。
 第1章、第2章では、成熟した心の状態を述べ、聖書的に、どうしたら成熟したスピリチャアルな心になれるのかを説いている。第3章、第4章では、家族関係を取り上げ、具体的なライフスキルを提唱している。第5章では、一般的な人間関係を、第6章、第7章では、人生の危機的場面での救急的なライフスキルを取り上げている。最終章では、人の発達段階に沿い、思春期、中年期、退職時期、老年期のそれぞれの問題を扱っている。
 本書の魅力は、第1に、予防的な手当てを行う意図があることにも関連して、人生の問題が実に網羅的に扱われていることである。どの年代、どのような必要に対しても、必ず具体的なヒントが得られるように構成されている。
第2に、本書の本質は信仰に根ざした臨床心理学の書であると思うのだが、各記述の人間理解の背後にある聖書の考え方を、絶えず御言葉とともに押さえていく姿勢で貫かれている。知らず知らずのうちに、聖書や教理を紋切り的にとらえ、硬直させてしまいがちな私たちに、別の角度から新たな言葉で信仰を引き出してくれるであろう。
 第3に、信仰の有無にかかわらず内容に伝達力と説得力がある。たとえば未信者の知人や家族、求道中の方々などに、本書を贈るなどして、聖書の示す深い世界観、人間観を間接的に伝え、広い意味での伝道に用いることもできるように思う。

(評・藤掛明=聖学院総合研究所カウンセリング研究センター准教授)


週刊 『クリスチャン新聞』 2009年6月14日号 =5面=掲載

『復活と歴史的理性−−神学の方法の研究』

L・R・ニーバー著(新教出版社、3,675円税込)

  マルティン・ルターのヴィッテンベルク城壁での「九十五ヶ条の提題」以来開始された宗教改革の歩みはチューリヒやジュネーブに飛び火し、ノックスによるスコットランドやイングランドへの伝播、ジョン・ロックの影響のもとでのウェスレアン・ムーブメントとなっていった。
 そして新大陸アメリカ合衆国での宗教改革の継承はカルヴァン神学の主導で進められた。そしてリチャード・ニーバー、ラインホールド・ニーバーの神学展開となって今に至っている。
 しかし宗教改革の神学の本流はドイツ語圏で展開されていった。20世紀神学はカルヴァン神学の継承者、カール・バルトへと結集した。
 本書はニーバー兄弟の神学とカール・バルトへ結集していったドイツ語圏の神学の対話の試みである。本書の著者はリチャード・ニーバーを父にもち、ラインホールドを伯父にもつハーヴァード神学大学院での組織神学担当教授である。
 訳者は本著をリチャード・ニーバーの『啓示の意味』の続編として位置づけている。最近翻訳されたリチャード・ニーバーの『アメリカにおける神の国』と読み比べたとき、『復活と歴史的理性』は『啓示の意味』との近さを感じる。
 そして本書の最大の魅力はカール・バルトの神学との対話である。バルトがドイツ語圏での存在論主義的な神学言語を歴史的、現実的な神学カテゴリー言語に転換させたことが評価される。
 イエスの歴史的現実性は、我々自身の歴史を最も直接に担うところで最も明瞭になるという歴史的実存主義である。バルトが神学的営みをした20世紀前半のドイツ語圏の歴史的状況と20世紀中葉のアメリカでの神学的営みをした歴史的実存を「歴史的理性」としてつないでくれている。
 最後に、本書のような良書を日本の神学界に紹介してくれた翻訳者の神学者としてのセンスを評価させていただきたい。

(評・東條隆進=日本キリスト兄弟団弥生台キリスト教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2009年6月7日号 =9面=掲載

『スカンジナビア人宣教師の日本伝道事始』

日本同盟基督教団教団史編纂委員会編(いのちのことば社、3,087円税込)

 この本は、アメリカのスウェーデン系フリー・チャーチが母体となって発行された「シカゴ新聞」に掲載された、日本宣教に献身した宣教師たちの書簡(報告記事)を翻訳したもので、現在の日本同盟基督教団の前身である日本同盟基督協会が形成されていった記録の一部です。資料は1891年(明治24年)6月から1924年(大正13年)までが翻訳されています。それ以降は資料が入手できなかったのか、翻訳されていないのか、それともないのか、不明です。
 新聞からの蒐集ですから、前後の脈絡はなく、その時々の宣教師たちが見た日本の一断面と宣教の様子が生き生きと切り取られていて、歴史に興味のない人にも飽きさせないところがあります。
 例えば、当時、日本は中国の玄関口であり、中国ミッションの働きの一環として日本宣教が位置づけられていたこと、日本人は知的な人々で音楽好きなこと、日本ではすでに鉄道が敷かれていて、移動も安くて簡単であること、宣教師は日本の着物を着る必要がないこと、フランソンが飛騨高山を宣教地として選んだ幾つかの理由、関東大震災を経験した驚きの様子などなど、「あげれば枚挙にいとまがありません。
 この本の編集上の特色は、付録にあります。第1に、基督教新聞や、ハーバード・ジョージ・ブランドを中心に形成されたキリスト同信会の働きの様子を記した「先輩兄弟ら−明治編−」が掲載されていて、日本人側の視点からもみることができること。第2に、覚えにくい宣教師の名前とその略歴や、アライアンス・ミッションの略史が掲載されていて、本文の記事を位置づけるとことができること。これらは、専門家だけでなく一般のクリスチャンたちに、一次資料をできるだけ読みやすく、理解を助けるように編集の努力がなされていることです。
 本文それ自体の貴重さもさることながら、こうした意味でも大変貴重な1冊となっています。


(評・高木寛=福音伝道教団大間々キリスト教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2009年5月31日号 =5面=掲載

『なぜ未受洗者の陪餐は許されないのか』

赤木 善光著(教文館、1,680円税込)

 近年、日本基督教団では、「未受洗者に陪餐を許すべきか否か」 について激論が交わされている。本著は、それに応えるために出版されたと思われる。
 著者は、長きに亙り東京神学大学にて教会史・歴史神学を講じてこられた。ご専門は古代教父、特にアウグスチヌスだが、「聖餐論」をライフワークとされた逢坂元吉郎との出会いもあり、この主題と長く関わってこられた。聖餐論の第一人者のお一人である。
 未受洗者の陪餐を許容する立場は、サクラメントを「恵みの手段」と考えず、倫理化・行動化している(41〜42頁)と、著者は指摘する。それは、サクラメントを内的信仰の行為化の手段と位置づけ、救われた者の倫理的決意表明の手段と理解することである。宗教改革以後、「意味さえ分かればよい」という主知主義が、サクラメントの秘義性を軽視させてきた歴史がある。そこでは、「意味のイエス」(114頁)のみが求められ、「実在のキリスト」(115頁)が見失われてきた。著者は、その「実在のキリスト」が気になりだしたと述べている(117頁)。
 本著では、16世紀以降のプロテスタント教会史が紐解かれているが、特に、これまでツウィングリとの聖餐論争で誤解も多かったルターを丁寧に読み直す。ルターは、「言葉によって語りかけたもうときに、ご自身を現わそうとされた所でのみ、神を把握することができる」(48頁)と考えた。サクラメントは、キリストにあずかるための「恵みの手段」として、キリストご自身が言葉によって定めたものである。そこにキリストは実在し、我々はその「実在のキリスト」に「あずかる」のである。この点において、「聖餐」はキリストの死と復活とにあずかる「洗礼」から切り離されてはならないし、その意義が明確ではない「愛餐」と区別されなければならない。そこに、上記の問いを解決する糸口があると著者は考えている。聖餐論啓発の一著である。

(評・遠藤勝信=日本同盟基督教団小平聖書キリスト教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2009年5月24日号 =9面=掲載

『賀川豊彦を知っていますか』

阿部志郎ほか著(教文館、1,050円税込)

 賀川豊彦献身100年記念事業の一つとして企画されたラジオ放送講演集である。加山久夫(賀川の生涯)、阿部志郎(ボランタリズム)、雨宮栄一(思想家として)、武田清子(社会思想)、森田進(詩人として)、古屋安雄(伝道者として)の6人が賀川の多面的な働きを語っている。
 1909年、21歳の神学生であった賀川は、結核病で余命は長くないと告げられ、残された生涯を最も貧しい人々のために献げようと神戸のスラム街に身を投じた。そこで実践した救貧、救霊の活動はセツルメント、労働運動、農民運動、普選運動、無産政党樹立運動、協同組合運動などと広がり、同志とともに日本の社会運動の基を築くこととなった。スラムはウソ、盗み、喧嘩、傷害事件、売買春、お金のためのもらい子殺しなどが日常であった。それらすべてが「貧困」からくることを見いだし、『貧民心理の研究』、『死線を越えて』などを執筆。特に後者は自伝的小説として150万部売れる大正期最大のベストセラーとなった。乳飲み子の瀕死状態を記した詩集「涙の二等分」はまさに涙なしには読めない悲しみの極みをうたっている。
 そのような大きな働きをなし、戦後の国際平和への寄与からノーベル平和賞候補にもなった賀川が、なぜ日本の教会で十分に評価されてこなかったのか。一つは当時の日本の教会のバルト神学の影響が挙げられている(加山)。そこでは教会形成が主で、キリスト教的見地からの社会実践は周縁的なものと見なされたという。また賀川は愛の実践を強調したが贖罪を強調しなかった、と評価されるがこれはまったくの誤解であるという(古屋)。むしろ賀川は贖罪愛という言葉を何度も使い、十字架の贖罪の強調をした上で、愛の実践としての神の国を広く説き、全国的な大衆伝道をも展開したのであった。
 今日、賀川豊彦の遺産を検証するための格好の入門書であり、多くの人々に読まれることを期待したい。

(評・稲垣久和=東京基督教大学教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年5月10日号 =5面=掲載

『カルヴァン論争文書集』

J・カルヴァン著(教文館、3,990円税込)

 生誕500周年という記念の年に、日本の読者にカルヴァンの新たな一面を明らかにしてくれる書物が出版されたことは喜ばしい限りである。編訳者自身が述べているように、カルヴァンの膨大な著作は「改革者としての冷静で理論的な思考や…骨太な神学、牧会者としての配慮などがよく表れている」(「まえがき」3頁)。それだけに、カルヴァンがどちらかと言えばクールで、落ち着き払った人だったかのような印象を受けるが、しかし、実際には、置かれた情況や直面する課題に応じて、論敵に対する痛烈な批判や痛切な揶揄を厭わなかった。
 この度邦訳された著作は『カルヴァン論争文書集』と題され、“チャレンジング”な響きをもつ。本書には「オリヴェタン聖書への序文」、「プシコパニキア 魂の目覚め」、「サドレへの返書」、「教皇派の中にある、福音の真理を知った信者は何をなすべきか」、「ニコデモの徒に告ぐるジャン・カルヴァンの弁明」、「躓きについて」の6文献が収められており、各々に固有の論調があるが、基本的に教理的誤謬者への批判・矯正、信仰の妥協者への警告・激励など、正に論戦文書である。
 カルヴァンを含む宗教改革者たちは、信仰教育の必要から福音の教理の体系的構築に努めたが、それは同時に、時のローマ・カトリック教会およびこれと結び付いた国家権力による迫害の中での信仰の弁証行為であり、不可避的に論争であった。古代教父は押しなべて「弁証家」(アポロゲート)であったが、改革者たちは(異なる文脈で)これを継承していると言えよう。その意味では、キリスト教は本質的に弁明の宗教である(Tペテロ3・15)。日本のキリスト教会は宗教的には正に“四面楚歌”であるが、この面でも宗教改革精神を継承したいものである。「カルヴァンには論争家としての面があったことを忘れてはならない」(「まえがき」3頁)。

(評・市川康則=神戸改革派神学校校長)


週刊 『クリスチャン新聞』 2009年5月3日号 =9面=掲載

『サイズ別に分析する教会形成の方策』

ゲーリー・M・マッキントッシュ著(いのちのことば社、1,890円税込)

  本書の原題は「One Size Doesn't Fit All」で、直訳すれば「1つのサイズに適したことが、すべてのサイズにあてはまるとは限らない」(訳者)である。教会のサイズによって、それを支配している原理、動かしている力、効果的な宣教方策などが違ってくるということである。
 アメリカの教会成長方策が紹介されるときは、成功し大きくなった教会の事例が多かった。この本は、それらとは一味違う。まず、アメリカでも大半を占める小規模教会(15〜200人)から中規模教会(201〜400人)に焦点を当てていることである。これでも大きいと感じるかもしれないが、その数字を4で割ると日本の教会事情に合うので(訳者あとがき)、4〜50人教会が51〜100人教会になるとき、さらには101人以上の教会に成長しようとするときに必要な変化と課題を論じている。
 そして、その分析の中心は教会の「人間力学」である。教会の志向性、リーダーシップ、牧師の役割、物事を決定するときの要因などが、教会のサイズによって変化してくることを描いてみせる。私自身が、開拓から今日にいたるまでに味わってきた事どもがあちこちに出てきて、文化による違いを超えた「人から成る教会という組織」を洞察する視点を与えてくれる。
 著者は、ヴァイオラ大学タルボット神学校のクリスチャン・ミニストリー及びリーダーシップ分野の教授を務め、教会コンサルタント会社「マッキントッシュ教会成長ネットワーク」の代表として、北米で53教派にわたる500以上の教会で奉仕しているという。決して教会の霊的な性質や使命を軽視していることはなく、むしろ、教会が霊的ないのちに満たされ続けるための方策を提供しようとしていることが、文章の端々で感じられる。
 構成は2人の牧師の会話であり、文章は翻訳と感じさせないくらい読みやすい。多くの教会の牧師、役員、奉仕者に役立つであろう。

(評・河野勇一=日本バプテスト教会連合緑キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年4月26日号 =5面=掲載

『アメリカ大統領の信仰と政治』

栗林輝夫著(キリスト新聞社、2,100円税込)

 時機を得た、待望の1冊が刊行された。「専門的でありながら読み易い!」というのが第一の感想である。昨年の2月に黒人神学者ジェームズ・コーンが目の前の講壇から「私は、昨日オバマに一票を投じてきた」と語るのを聞いて、評者は米国における「教会と国家」が切り離せないものであることを改めて強く感じた。バラク・オバマ大統領の出現は、リンカーン生誕200周年、全米有色人地位向上協会(NAAC)創立から100周年、キング牧師暗殺から41年という時を鑑みても、記念碑として語り継がれることになるだろう。オバマは単にアフリカ系であることを強調するだけでなく、すべての人種を含む「国民統合」を目指している。このような新大統領の主張は1日にして成ったのではなく、その背後に脈々と流れる米国の歴史を象徴する大統領の系譜があることを、本書は見事に解き明かしている。
 米国史に精通しながら、精神的な距離を保ち続けていなければ歴代の米国大統領を神学的に評価するのは、至難の業である。著者は歴代10人の大統領の信仰を、外的な客観性を失うことなく、しかも、その歴史を内面から描き出すという困難な作業を試みて、それに成功しているように思える。著者の主唱する「愛国主義とキリスト教信仰」を内実とする「アメリカ教」を受け継いだ、歴代の大統領への評価は興味深いものがある。アメリカにおける「教会と国家」という問題を考える入門書として最適であるばかりではなく、ほぼ全ページに散見される著者が収集した多くの資料の引用は研究者にとっても有益なものである。  また、例えば本書に紹介されているアイゼンハワーへの補足として、同著者による『原子爆弾とキリスト教』(日本キリスト教団出版局)を併せて参照すれば、原爆投下を決断したトルーマンとの違いを考察することが出来るだろう。このコンパクトな書籍に、これだけ豊かな内容を含ませたのは、やはり碩学の業であり、長く読み継がれるテキストとなるに違いない。

(評・佐藤岩雄=カンバーランド長老教会さがみ野教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年4月19日号 =9面=掲載

『み前にそそぐ祈り』

加藤常昭著(キリスト新聞社、2,100円税込)

 本書は日本基督教団鎌倉雪ノ下教会の牧師であられた加藤常昭氏が、主日礼拝において祈った77の祈りをまとめたものである。著者は1986年にも同じような祈祷集『教会に生きる祈り』(教文館)を出版しておられる。
 加藤氏は神の言葉の説教に心血を注いでこられた。教派を超えて多くの牧師・信徒たちに大きな影響を与え続けておられるが、今回、礼拝において「神に向かう祈り」が本として出版されたことの意義は深く大きい。話され、祈られた言葉そのものは消えていく。しかし書きとめられた言葉は残り、何回でも繰り返して読めるからである。加藤氏の説教はそのようにして多くの人々に読まれ続けているが、今回の発行でこの祈祷集が読まれようになったことは大きな喜びである。読まれるだけではなく、個人の部屋で、家庭の居間で、そして教会の礼拝において、実際に祈られ続けていくものとなると思う。
 詩篇の祈りを自分の祈りとして祈り、主イエスが弟子たちに教えてくださった「主の祈り」が絶えず祈られるように、もっと私たちは信仰の先輩たちが祈ってきた祈りを自分の祈りとして、心を込めて祈っていくべきではないだろうか。信仰を学ぶということは祈りを学ぶことであるからである。そのようにして学ぶ私たちの祈りが整えられ、少しでも成長させていただけるならば幸いである。こうして、悔い改め、砕かれ、耕やされた心に神の言葉が深くしみ込んでいくときに、私たちがささげる礼拝はさらに豊かで美しいものになり、教会生活は充実するのではないだろうか。
 「全世界にある兄弟姉妹の群れのひとつとして、今、ここで私どもがささげる礼拝もみ心に適うものとしてください。あの日あのところで注がれたみ霊が、今ここでも注がれ、私どもの心を和らげ、石の心を柔らかなパンのような心に変え、み言葉をしっかりと聴くことができるように耳を開いてください。」(祈り27「枯れた骨にいのちを」より)

(評・古川修二=城陽ナザレン教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年4月12日号 =15面=掲載

『喜び祝い、喜び踊ろう』

近藤勝彦著(教文館、1,995円税込)

 著書は、求道者や受洗後間もない方々がキリスト信仰の本質を学ぶことができるようにという、一編集者の願いから生み出された説教集です。著者・近藤勝彦氏は日本の神学について研究されている指導者のお1人です。その近藤氏の説教は聖書的であることはもちろんのこと、その内容は真に明瞭明快であり、慰めと憐れみに満ちていて、喜びの知らせを人々に確かに伝える、心ふるえるものです。
 ここに収められている18の説教はどれも、キリスト者に与えられている主イエス・キリストとの交わりの確かさと尊さを伝えており、 そして、その説教ごとに、「罪とは何か」、「信仰とは何か」、 「人生の悲惨をどう捉えるのか」、「聖書に耳を傾けることの重要性」、「苦しみと贖い」、「試練と十字架」、「クリスマスの意義」、「勝利・喜び・礼拝」、「キリスト者の生と死」、「復活の信仰」、「ペンテコステと伝道」というようなキリスト者にとって大事なテーマを取り扱っておられます。
 いわゆる教科書やノウハウ本とは異なり、それらを説教という形式で聴き(または読み)、学ぶことができるということがこの書の最大の特長だと思います。「聖餐」のこと、更に「悪霊」や「癒し」のことに短く触れている所も見逃してはならないでしょう。
 また、受難節や降誕節といった教会暦に対応して編集されているので、その時の祈祷会の学びなどに用いることができます。教会で受洗後の学びのテキストに用いるにも最適な1冊だと思います。
 最後にひと言。あとがきで近藤氏は日本プロテスタント伝道史における「敬虔主義的な福音主義的自由教会」の長所と弱点に触れています。この点における著者の洞察と提言をJEA総会講演会(6月1日〔月〕東京ベイ有明で開催)でお聞きしたいものです。この公開講演会に関心をおもちの方は是非ご参加ください。詳しくは日本福音同盟ホームページまで(http://www.jeanet.org)。

(評・具志堅聖=日本福音同盟総主事)


週刊 『クリスチャン新聞』 2009年3月29日号 =7面=掲載

『聖書のにんげん模様』

堀 肇著(マナブックス、1,260円税込)評・藤原導夫

  私たちは聖書の人物を理想化し、自分と比べ、そのギャップに悩みながら生きていないだろうか。本書はそのような私たちの信仰的苦悩を癒す処方箋のように書かれている。「あとがき」で著者は、「聖書の人物を英雄伝のようには書いていない」、「信仰者として優れた側面だけを強調し、理想化していない」と自らの論述を振り返る。
 本書は05年から07年にかけて「百万人の福音」誌に連載された「聖書のにんげん模様」に修正・加筆されて単行本化されたものだ。旧約聖書から13人、新約聖書から11人の様々な人物が取り上げられ、その生涯と信仰が考察されている。
 例えば、モーセは不屈で他の追随を許さないほどの強力な指導者であった。しかし、その偉大さのみでなく、むしろ意識的にその裏面に潜む私たち人間共通の弱さや失敗にも目を注ぎつつ、その正確な全体像に迫ろうとしている。つまり、モーセという存在を光と影の両側面から注視し、長所も短所も、成功も失敗も、栄光も恥も視野に入れることで、見えてくる人物像を直視しようとする。別言すれば、神の前でこそ本当に明らかにされてくる人間像をとらえようとする。それは、まさに聖書が描こうとしている人物像にほかならない。それを、牧師であり臨床パストラル・カウンセラーである著者の経験や視点から浮かび上がらせ、聖書本来の人間像に重ね合わせるように描き出そうとしているのである。
 本書は、そのような視座をもって、聖書の人物について考察を深めようとしており、その根底に流れているのは「信仰者とは常に強く前向きでなければならないのか」という変わらぬ問いである。私自身も著者が辿ってきた信仰上の葛藤や問題意識を共有する者の1人として、改めて深い共感を覚えながら読ませていただいた。私たちにとってきわめて重要な「聖書とは何か」「人間とは何か」「信仰とは何か」という問題についての深くて温かい理解が、その文章と行間からにじみ出てきているように思う。

(評・藤原導夫=お茶の水聖書学院副学院長、日本バプテスト教会連合市川北教会牧師)


週刊 『クリスチャン新聞』 2009年3月22日号 =5面=掲載

『クリスチャン弁護士の ちょっと気になる事件簿』

持田明広著(マナブックス、1,000円税込)

 著者が実際に取り扱った事件の中から、「遺産相続」と「家族問題」に絞った20件について解説している。私がお願いし一緒に取り組んだ事件もある。1件ごとに聖書をベースにしたクリスチャンの考え方が反映されていて、非常に参考になる。
 法律問題が起きてしまった時、クリスチャンとしてどのように対応したらよいか、悩んでしまうものである。試練として愛をもって甘受すべきなのか、社会のために正義を貫くべきなのか。どちらかというと私は前者であるが、著者は後者だ。クリスチャンでも弁護士により対応が違ってくる。
 しかし、同じ神を信じているわけだから、祈りつつ事件に取り組んでいくならば、結果はあまり変わらないと思う。
 最後に著者の証が載っているが、ここは圧巻である。「誰でもいつかは死に、すべてを失ってしまうんだ。ならば、自分は好きなことだけをして生きよう!」。大学は法学部に入ったものの、勉強と努力が大嫌いで、好きなテニスに専念し麻雀に没頭。しかし失恋を機に天地万物の創造主と出会い、人間死が終わりでないことを悟る。生きることに意味を見いだし、弁護士を志して法律の勉強を始め、なんと司法試験に8回チャレンジして合格。すごい証である。
 証に載っていないが、実は弁護士になってからのほうがすごい。成り立て弁護士でありながら最高裁大法廷で15人の判事を前に憲法裁判の弁論をしたり、ヤクザに脅されながら防弾チョッキを着て事件に取り組んだり、インターナショナルVIPクラブ関西を立ち上げアッという間に十いくつの支部をつくったり…。
 顔はいかつく身体は剛胆に見えるが、心は繊細、脳は緻密である。勝負師としては「絶対負けない主義」。長年にわたりテニスと麻雀という勝負の世界を生きてきた賜物だろう。パーッと咲きパーッと散っていくクリスチャンが多い中、イエス・キリストの盤石な土台の上にしっかり立っている著者は、安心して頼れるクリスチャンである。

(評・佐々木満男=国際弁護士)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年3月15日号 =9面=掲載

『歴史における近代科学とキリスト教』

藤井清久著(教文館、2,625円税込)

 近年、「科学とキリスト教」についての書物が多く出版されるようになった。一つには「科学とキリスト教とは対立する」という啓蒙主義的世界観が崩れ、ポスト啓蒙主義、ポストモダンの思潮が出てきたことによっている。しかし「科学」が与える世界観は、ポストモダンが主張する相対的な世界観とは直接関係ないので、この点の注意深い取り扱いが必要だ。
 本書は西洋思想史の、各時代における科学者の宗教観に光を当てながら、ガリレオ裁判なども含むキリスト教と科学との葛藤を克明に記述し、20世紀終わり頃から双方は対話的関係に入ったことを述べている(ただし、宗教的原理主義者、唯物論者、科学至上主義者などの間では依然として科学・宗教の対立論が強い、としている)。
 類書に比べ、目新しいところとしては第8章「エコロジーとキリスト教」が挙げられるが、ここは神学的には、今日に復権を見せている自然神学の展開となっている。たとえばトマス・ベリー(1914年縲怐jの環境神学が紹介されるが、これは従来の神学が贖罪を強調して「自然」をないがしろにしたとして「贖罪経験を強調することを控えるとともに、創造プロセスをもっと強調することである」と述べ、創造の大切さを強調する。それは霊的であると同時に、物質的なレベルの被造物を重視することだから、人間の経済生活をも視野に入れることになる。エコロジーとエコノミーは大いに関係するわけだ。つまり宗教と経済は、地球の自然プロセスに関する2つの側面であったから、宗教が瓦解したときに経済も瓦解するとして「地球社会主義」を主張する(228頁)。ただ、この地球社会主義が今日の環境問題、地球温暖化の国際協力にどう資するかは本書の範囲では不明である。その目的のためには、むしろ人間の自己利益と欲望追及に歯止めをかける悔い改め、すなわち「贖罪信仰」が同時に再考されねばならないのではないか。

(評・稲垣久和=東京基督教大学教授)
週刊 『クリスチャン新聞』 2009年3月8日号 =5面=掲載

『牧師の責任 信徒の責任』

野田 秀著(いのちのことば社、1,680円税込)

 本書を読んで、さすが長年、伝道と牧会の働きをされた牧師であると感じました。
 特に、第1章の「牧師の責任・信徒の責任」は、教会の役員、教会の各グループリーダー、教会員が理解してもらいたいことが記されています。
 「責任」と言うと重い響きをもった言葉ですが、本書でいう「責任」を正しく理解することによって、牧師にとっても、教会役員、教会員一人ひとりにとっても、その負っている立場と責任を理解し、伝道と教会形成の生きた奉仕に繋がっていくのではないでしょうか。
 著者が「責任」と言うとき、教会内だけではなく一般社会でも通用する責任を語り、そのことがこの世に生きるキリスト者として証になるのではないでしょうか。
 第1章の後に、項目では「付 正論について」と、20ページほどに記されていますが、特にこのことは考えさせられます。一般社会の問題としても分かりやすく語りつつ、聖書の正しい理解の仕方から、教会役員会での話し合い、教会内の話し合い、教会内での人間関係の理解にいたるまで参考になります。
 著者は「人はしばしば自分の正しさに立てこもることによって見失うものがある」と語りつつ、「聖書を読む人は、正しさも大切ですが、それ以上に必要なものは、愛であることを知るでしょう」と結んでいます。
 第2章「深い淵から主を呼ぶ」(ショートメッセージ)。この部分は、著者自身が「おわりに」の部分で、長年にわたって奉仕した教会の機関誌に記したものであると言われています。著者の伝道と牧会の経験のなかで記したものであり、熟練した牧師の伝道と牧会の生きた証であり、読者にとって教えられる貴重な文章であると言えます。
 47篇ありますので、毎日1篇ずつ味わっても、読者のよい学びになるのではないでしょうか。

(評・岡村又男=日本同盟基督教団顧問、横須賀中央教会名誉牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2009年3月1日号 =9面=掲載

『ボンヘッファーとキング 抵抗に生きたキリスト者』

J・ディオスティス・ロバーツ著(日本キリスト教団出版局、4,410円税込)

 「神にとっては、神無き者の呪いの言葉は、時には敬虔な者のハレルヤよりも良いものである」。この言葉は、ディートリッヒ・ボンヘッファーがカール・バルトのゼミに出席したときに引用したという、宗教改革者ルターの言葉である。私は初めて目にした言葉で驚き、且つ感銘を受けた。
 ナチズム、人種差別に抵抗し、共に39才の若さで斃れた2人の生涯、思想遍歴をたどった書で、改めてこの2人に共通したものを確認することができる、心揺さぶる書である。
 2人は経済的にも、家庭的にも、また教育環境、何よりも信仰環境において上質の中産階級に生い育った。まさしく「敬虔な者のハレルヤ」に囲まれて育った。
 ボンヘッファーはベルリン大学博士課程を終え、特別研究員として米国のユニオン神学校に渡って2年間を過ごした。神学校に比較的近いハーレムの黒人教会に出席し、日曜学校の教師もしている。
 そこで「人種差別」に苦しめられる「神無き者の呪いの言葉」を聞き、帰国後、ヒトラーによる反ユダヤ主義の暴虐に立ち向かう実践へと促されたのだった。
 一方、キングもボストン大学博士課程を終えて、最も人種差別の激しかった南部モンゴメリーのバプテスト教会の牧師として赴任することになる。そこで彼も「神無き者の呪い」の呻吟を聞くことになった。バスボイコット運動の指導者に担ぎ出され、公民権運動を展開して米国に市民革命を起こした。
 2人に共通していることは、その機会も能力も備えられていたにもかかわらず大学での学究生活には赴かず、愛の実践に生き、殉教したこと。そして伝統的信仰、即ちキリストによる贖罪愛への信仰を継承し、社会的広がりの中で展開したことである。
 この2人の殉教は、ドイツと米国の歴史を逆転させない不動の歯止めになった。


(評・山本将信=日本基督教団篠ノ井教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年2月22日号 =5面=掲載

『父とショパン』

崔善愛著(影書房、2,100円税込)

 著者の崔善愛さんは在日韓国人3世のピアニスト。父・崔昌華牧師は、「私はサイショウカではない、チォェチャンホァだ」とNHKに抗議し、在日韓国朝鮮人の名前を原音表記するようメディアを動かした。指紋押捺制度が2000年に撤廃されたのも、この「ほえる」牧師の押捺拒否が起点。本書はその父の生きた軌跡をたどる。日本統治時代の朝鮮で生まれ、日本語を強制され日本名を押し付けられた。その体にしみ込んだ体験から、在日大韓教会の牧師になると命がけで「民族性回復」を訴え人権闘争に邁進。日本に同化しなければ生きていけず、蔑視され社会のどん底にある在日の人たちに聖書を語り、「しっかり勉強しなさい」と励ます。しかしどんなに勉強しても就職差別やいじめに苦しむ姿に壁を感じ、「やがて父の天上への祈りは、地上への闘いとなっていった」と娘は見る。
 だが日本生まれの彼女は、そんな父を理解できずに苦しんだ。「父と暮らしていたころは、毎日のように父からつきつけられる日韓の醜い歴史を聞くのがつらく、自分を守り包んでくれる音楽の美しさに浸っていたい、と音楽に身を投じていた」。しかし被差別部落出身の友との出会いを機に指紋押捺を拒否し、「被告」となる。5年後、再入国許可がないまま米国に留学。特別永住資格を剥奪され、彼女も国の歴史との闘いを身に受けていく。
 もう一つの主題ショパンは、その「亡命者のような」留学中に彼の手紙の言葉を知った。それを通してロシアの支配にあえぐ祖国ポーランドを離れ、異国フランスで生涯を閉じたこの音楽家について「ロマン派」「ピアノの詩人」という優雅なイメージが取り払われ、祖国に戻れない苦しみの中で激情し、怒りをピアノにたたきつける姿がうかびあがったという。そうして「音楽の調べもまた歴史社会から切り離されたものではなく、政治と戦争に翻弄され傷ついた音楽家たちの心の叫びであったことに気づかされていった」。それはまた、かつて理解できなかった亡き父の叫びに耳を傾けようとする、在日の世代間の調性の違いをつなぐ調べにも聞こえる。

(評・根田祥一=クリスチャン新聞編集長)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年2月15日号 =9面=掲載

『動乱の中国にキリストの愛を携えて』

ステファン・フォートシス、メアリ・グラハム・リード著
(いのちのことば社、2,100円税込)

 プロテスタント宣教の歴史から見ても未曾有の福音の季節を迎えている中国大陸には、今、1億人ものクリスチャンがいると言われている。にわかには信じられないが、毎年200万もの人々が回心しているといった報告は、困難な時代に苦闘しながら福音を伝えた宣教師たちにこそ聞いて欲しかった証だ。
 本書は、その中国宣教が最大の危機を迎えた19世紀末、北部の江蘇省で、涙をもって福音の種を蒔いたアメリカの宣教師アンクル・ジミーとアント・ソフィーの宣教報告である。
 当時の宣教の拠点には、作家パール・バックの父、シデンストリッカー宣教師も赴任。後に医療宣教師のベル博士も合流した。ちなみに、ベル博士の娘ルツは後に、大衆伝道者ビリー・グラハム氏の夫人となった。
 長く外国人による支配に苦しんできた中国の民族主義者による暴動は、1900年に頂点に達し、外国人実業家や宣教師が次々と殺害された。明らかになった犠牲者の数は、3万人のカトリック信者、プロテスタントでは、1900人の中国人信者、134人の宣教師と、その子ども52人が殺された。その犠牲者には、アンクル・ジミーの友人も多く含まれていたという。
 「主よ、私自身のあらゆる計画と目的を捨て、あらゆる欲望と念願を捨て、あなたのみこころをわが人生に受け入れます」とは、アンクル・ジミーの祈りでもあった。
 今から100年前の中国で、宣教師たちがいかに主のために苦闘したか、特に異文化の軋轢に耐えられず、精神的病いに冒された1人の働き人が自らの命を絶ったという記述の中に、その苦悩の深さを知らされる。
 本書の序文は昨年、天に召されたルツ・グラハム夫人が書いているが、自身、江蘇省の伝道所で幼年期を過ごした体験があり、その地域には現在、30万人ものクリスチャンが起されている事実を報告している。

(評・守部喜雅=百万人の福音編集顧問)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年2月8日号 =5面=掲載

『ゲノムと聖書』

フランシス・コリンズ著(NTT出版社、2,730円税込)

 ゲノムという生物学の専門用語より、ヒトゲノム計画という言葉を聞いた方は多いのではないだろうか。筆者は国際ヒトゲノム計画のリーダーとして10年以上にわたりヒトのDNA配列の解明を指揮し、その全容を解明する世紀の事業を完成させた経歴をもつ。まさに最先端の生物学、医学に携わる超一流の遺伝学者だ。この様な経歴のもち主が、福音主義の立場から科学と信仰に関する本書を出版した。科学とキリスト教の関係を対立、分離、対話、調和などのことばで表現するとすれば、著者の立場は明快だ。それは調和である。それを見いだすため、著者は信仰に関する知的探求の旅を行ったという。それらの思索の結晶が本書だと感じた。
 その思索の結果、その立場を表明するために、著者はバイオロゴスという新しい言葉を生み出した。この言葉は、私たちの日々の歩みを守り支える有神論的な神を信じる信仰と、宇宙進化や生物進化を含むすべての科学を全面的に受け入れることを意味する。この造語により有神論的進化論という誤解を与える古い表現を避ける工夫を行った。ここにも著者の意気込みが感じられた。このバイオロゴスの立場を支持する日本人クリスチャンも決して少なくはないと思われる。
 ただし、同じ福音派であっても、進化論、特に生物進化論の受け入れ方は、科学の理解力と聖書解釈、そして神学的立場に依存して千差万別になると思われる。従って、同じバイオロゴスでも複数の解釈が生じる可能性はあり、著者のバイオロゴスが決定版というわけではないであろう。著者が提案していることは、科学と信仰について各自で考え、両者の間に調和のあることを認め、神を信じる信仰に至ることだ。
 本書は、信仰の有無を問わず科学と信仰、あるいは科学と神について疑問、関心をもっている方々に非常に有益な情報源であり、また現代科学を知る啓発書ともなっている。翻訳もすばらしく、大変読みやすい。読みたくなる1冊だ。

(評・中山良男=東京基督教大学非常勤講師、日本福音キリスト教会連合筑波キリスト教会会員)

週刊 『クリスチャン新聞』 2009年2月1日号 =9面=掲載

『はじめてのルター』

S・ポールソン著(教文館、1,995円税込)

 ルター研究には、いくつもの切り口がある。一般的には、キリスト教史の中で、宗教改革ののろしをあげたルターであろう(たとえば、ケアンズ『キリスト教全史』)。聖書解釈法からのアプローチも、心理学的なアプローチもある。本書は「イラストでよむ『神学入門シリーズ』」の3冊目で、初めての読者でもルターが分かるよう意図されて書かれたものである。
 著者は北欧系ルーテル派が最も多いミネソタ州のルーサー・ノースウェスタン神学校の組織神学の教師で、ルター神学の専門家だ。本書では膨大なルター研究の資料をいかに小冊子にまとめ、初心者に分かるよう提示するかに創意と工夫をかけているかが分かる。それは1章「初めに、説教者がいた」と2章「律法と福音」、3章「信仰のみによる義人」、4章「聖書の単純な意味」以下12章までの目次と配列の順番によく表現されている。
 1章「初めに、説教者がいた」は、単なるルターの説教論ではない。著者は、宗教改革の切り口を「初めに、説教者がいた」から始める。「ルターは、聖霊が、まことに説教者を送り出すのだと考えた。説教者たちは、神の言葉をたずさえて送り出される」(本書34頁)。この切り口が、クリスチャンを含む、現在のアメリカ社会の傲慢と自己欺瞞を打ち砕くという預言者的なメッセージともなっている。
 第2は、魂への配慮、魂の癒しの新局面を開いた人物としてのルターである。「ルターの神学のすべてが、結局、牧会的な魂の配慮であり、それは、キリストを求めない人々に、いかにキリストを伝えようと努めるかということになる」(本書120頁)。ユーモアに富んだイラストと共に、すでに何冊かのルター関係の書物を訳している著者の訳文は読みやすい。できれば1513年と考えられる「塔の体験」、1517年の95か条の提題、1521年のヴォルムスの国会、1525年の「奴隷意志論」までのルターの思想的発展の年表を覚えつつ読むと、本書の面白さは倍増すると思われる。

(評・鍋谷堯爾=神戸ルーテル神学校教授)
週刊 『クリスチャン新聞』 2009年1月25日号 =5面=掲載

『傷ついた心を癒す旅』

デビッド・L・トンプソンほか共著(日本聖化協力会、2,730円税込)

 よくも、これほどまで赤裸々に、自分を、家庭をさらけ出せたものだ。いや、そこまで恵みは確実に届いたからなのだと、驚嘆と尊敬が先立つ。建前としてのきよめを信じていても、本当に大切なことを家族で話し合わなかったとの悲痛な告白が、ここにある。
 敬虔な神学校教授を打ちのめしたのは、長男がマリファナを常用している事実だった。かくて暗黒からの脱出の旅路が始まる。家族の抱える危機の根は深く、広い。なのに、あまりにも無知な自分。聖化についての善意の誤解が私たちをも束縛してはいないだろうか。トンプソン家の事例描写が切実、リアルなだけに、他人事ではない。似たような苦境にある人の誰にでも、必ずや回復の手がかりとなろう。
 きよめの路線を貫きながら“回復と自助”のため、健全な聖書講解(エペソ4・25縲5・2)に基づく弟子訓練に入る。神は、すでにご自身を啓示し、“指針”を与えておられた。この気づきが鍵となる。ご自分の民に対する神のご目的は“聖い愛の人”。必要にして十分な“いつくしみ”。それに気づくこと。根ざすこと。方向づけと力。「愛に根ざし、愛に基を置く」、これが弟子訓練と回復の旅路の基礎である。
 トンプソン家の人々は悲劇をばねに見事に飛翔する。「欺きから開示へ、破滅的怒りから活力ある動機へ、寄食者からパートナーへ、毒されたおしゃべりから建設的なコミュニケーションへ、怒りから和解へ、根なし草人生から神の愛子へ」。パウロの指さすゴールへ御言の深い味わいに養われ、ステップを踏みしめて登る喜び。宗教的な味つけをした心理学用語で人間の諸問題を扱おうとする現代に、本書は堂々と福音本来の力を実証し、きよめの内実を見せてくれる。「いつわりを捨て、真実を語る」ことが、今の虚偽、あざむきの時代にいかに大切ことか、私たちは恐れず、自分に潜むものを明るみにし、告白し合おう。喜びの歌と共に。

(評・飯塚俊雄=日本イエス・キリスト教団東京若枝教会主管牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2009年1月4/11日号 =12面=掲載

『人種の問題 アメリカ民主主義の危機と再生』

コーネル・ウェスト著/山下慶親訳(新教出版社 2,100円税込)

 「イエス・ウィ・キャン!」をスローガンに民主党のオバマ候補が11月4日の大統領選に勝利し、ここにアメリカ史上初の黒人大統領が誕生することになった。その少し前から取材でニューヨーク入りしていた評者が翌朝ハーレムの黒人街で見たのは、新聞スタンドの前に並ぶ人々の誇らしげな表情だった。
 アメリカの病根の大きなひとつが人種差別であることは言うまでもない。本書は黒人知識人の筆頭格で、プリンストン大学で教鞭をとるコーネル・ウェストが、人種差別の問題に鋭くメスを入れた論考で、1993年に出版されて以来35万部を売りつくすというベストセラーの翻訳である。
 どんなに深く差別の病がアメリカ社会に根をはっているか、なぜ差別の解決が民主主義にとって重要なのかを丁寧に解き明かす本書のなかで、ウェストは、もし黒人青年の多くが夢をもてないままならば、やがてアメリカ社会は死にたえるだろうと警告する。
 では何をどうすればいいのか。ウェストが人種問題への処方箋として説くのは、聖書の預言者的な正義、公平、愛の叫びをアメリカの中によみがえらせることである。希望のもてる社会をつくるために人種や性、地域や階層の別を越えて、多くの良心的な人々を目ざめさせ、従来の枠を超えた民主的なリーダーシップを発揮できる政治の場を立ち上げることである。「今日よりは明日へと希望を紡ぐことができるなら青年たちは立ち上がる。それはまったくの夢物語ではない」とウェストは主張する。
 今回オバマが遊説中にニューヨークのハーレムにやってきたとき、その演説会の司会役を務めたのが本書の著者ウェストだった。選挙キャンペーンで「国民の一致」を説いたオバマは若い人々の共感を得て、新規登録者では3人に2人が彼に票を投じた。本書は信仰書でも神学書でもないが、1月に就任する新しい大統領を深いところで突き動かしたアメリカの夢を代弁する。ぜひ一読をお勧めしたい。

(評・栗林輝夫=関西学院大学法学部教授)