週刊 『クリスチャン新聞』 2010年12月19・26日号 =21面=掲載

『ガラテヤ人への手紙講解』

伊藤明生著(いのちのことば社、2,310円税込)

 日本語で読めるガラテヤ書の福音的解説書といえば、翻訳では1968年のメリル・テニイ著、1980年のジョン・ストット著が知られる。日本人では1973年の新聖書注解新約2所収・村瀬俊夫著、1982年の新聖書講解・後藤喜良著。だから本書刊行を30年ぶりの画期的出来事と言い表しても、さほど大おお袈げ裟さではなかろう。Essential Bible Commentaryという新しい聖書講解シリーズの第1弾である。
 本書は講解説教の体裁をとっているが、私訳、講解、緒論、注から成り、読者の求めに応じて深く詳しい専門的学びも可能となるよう配慮されている。まずは講解から読むべきだろうが、慣れ親しんだガラテヤ書を新約学者がどう訳しているか気になるし、私訳と講解に注がついていれば探求心を掻き立てられ巻末を覗のぞきたくなる。ガラテヤ書は福音の核心を戦闘的に宣言する書で、パウロにまつわる個人的内容や宛先問題もあるので緒論は重要。結局、全部読めということだ。ただし注にはギリシャ語も多く出て来るので、読みこなすにはそれなりの準備が必要となる。
 例話があるわけでなく、適用も各講解の終わりに少し。しかし、聖書べったりの内容が実に心地良く、スイスイ読めてしまう。本文の読みで興味深い個所も多く、講解7で論じられる「キリストの信仰」(2・16、新改訳「キリストを信じる信仰」)は、昨今の米国神学会で議論が続く主語格属格の理解が注で示され(322、3頁)、目が開かれる。
 私事になるが、評者が著者よりガラテヤ書釈義を学んだ神学校クラスの初回は、手元に残るノートの日付で1989年10月13日。著者は同月1日に英国留学から帰国したと、本書あとがきで知った。以後20年間に亘わたるガラテヤ書研究の集大成が本書と聞き、最初のクラスに出席した特権を思うと、感慨無量という他ない。色あせた鉛筆書きのノートが、深められ、洗練され、説教のことばとなって天下に公表された本書を、副題のとおり福音の真理を学ぶ書として、心よりお薦めせずにはいられない。

(評・関野祐二=聖契神学校校長)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年12月12日号 =9面=掲載

『あかるいウツのすすめ』

斉藤登志子著(いのちのことば社、1,260円税込)

 著者の斎藤登志子さんは20年にもわたるウツの経験をもっておられる。その経験を自然なままで本書を通して読者と分かち合う。ご本人も言うように「私はこうしてウツを克服した」というような肩肘のはったものではない。ウツと長い間「共存」してきた登志子さんの歩みの中から生まれてきた告白とアドバイスを綴ったものである。
 ご本人が言われるように、ウツにも個人個人で特徴があり、登志子さんのアドバイスに共感する人もおられるだろうし、ピンとこない読者もおられるだろう。大体、「あかるい…」などというタイトルに抵抗をお感じになる方もいるかもしれない。そして「この本は明るくウツを生きるための手引きです」という出だしの文章に驚くだろう。初めからウツを治そうなどという気構えはない。できるだけ明るくウツとつき合っていこうという態度である。本来ウツは暗いもので苦しいものである。明るくなれ、と言われて明るくなれるものなら苦労はない。ウツは気の持ちようでどうにかなる病気ではないのだ。登志子さんはウツを深刻に受け取らないで軽く受け止める態度もありなのだ、と読者に訴える。
 彼女が本書を一貫して勧めるのはゆっくり生きることだ。元来、彼女はそれとは正反対の性格の人のようで「常に動き回っていないと時間がもったいない」と感じてしまう人だった。彼女は言う、「ウツに陥る人はいつも忙しくていないと落ち着かなかったり、予定をいっぱいにしていないと怠けているような気がするというせわしなさを持っているようです」。だから活動を減らし「ゆっくり生きよう」というメッセージは大切なのだ。イエスが言われた、「なくてならぬものは多くはない、いや、一つなのだ」というメッセージを連想するが、登志子さんはそのような人生を「引き算の人生」と呼ぶ。
 私達は「足し算の人生」に価値を不当においてきた。今は「引き算の人生」を見直し、なくてはならぬ一つのことを見つめることが大切な時代なのかもしれない。 

(評・斉藤善樹=日本ホーリネス教団東京聖書学院教会牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2010年12月5日号 =5面=掲載

『キリスト教霊性の歴史』

P・シェルドレイク著(教文館、1,890円税込)

 キリスト教霊性への関心の高まりは止むことなく今日も続いている。数多くの出版がすでになされており、広範囲の研究が進められている。日本の福音主義の教会の間でも話題となっているが、そのことを「聖書解釈」、「祈りの生活」、「共に生きること」という視点で取り扱われることが多い。本書は、その霊性を歴史的視座から丁寧にかつ簡潔に解説するものである。
「霊性への回帰と伝統的宗教からの離反」が進む今日の時代認識から本書の語りは始まる。そして、過去二千年に及ぶキリスト教界で霊性という項目が、どのように理解され、どのような意味があり、何が影響を及ぼしてきたか、何に影響を及ぼしたかなどを、端的に解き明かす。本論では霊性に関する歴史的考察を「聖書と初期の教会」(西暦300年まで)、「修道制的パラダイム」(300-1150年)、「都市における霊性」(1150-1450年)、「宗教改革時代における霊性」(1450-1700年)、「理性の時代における霊性」(1700-1900年)、「モダニティからポストモダニティへ」(1900-2000年)の5つの項目に分けて語る。それぞれの時代の代表的人物を取り上げ、その歴史的文脈の解説を加えながら説明する。その要約が的を射ていて明快である。
 そして、本書の目標はこれらの霊性研究を経て、これから先の時代、キリスト教霊性はどのように意味をもつことになるのか、それを予知することにある。著者は一つの道として「エコロジー霊性(ecospirituality)」を取り上げ、キリスト教信仰が多文化的、多宗教的な文脈に順応しなければならない挑戦があることを指摘している。あとはじかに手にとってぜひ読んでいただきたい。
 この霊性の分野における概論の書として、または教会史を学ぶテキストとして用いることができる。教会教父の霊性からカリスマ運動までの広範囲を取り扱っているが、それらの膨大な内容を一冊の小著にまとめること自体無謀なことかもしれない。しかし、それを可能にしてみせた書として注目に値すると思う。

(評・具志堅聖=日本福音同盟総主事)
週刊 『クリスチャン新聞』 2010年11月28日号 =10面=掲載

『北国の伝道』

小笠原亮一著(日本キリスト教団出版局、2,100円税込)

 この書物の著者は、私とほぼ同世代の、只今、ガンの病のもとにあり、教会の第一線を退かれて、許されるままに北国の諸教会の支援と奉仕に生きておられる牧師である。
 私の状況と類似しているが、異なるのは、日本基督教団に所属する牧師であるという点である。私はこれまで、福音派の教職との交わりを持ってきたが、日本基督教団の牧師の方々との関わりは、地域教会の牧師を除けばほとんど無く、その牧会や信仰姿勢について十分に知らない。それゆえ、新鮮な思いで、この書物を読ませていただいた。
 内容は、教会などでの説教であり、著者の信仰生涯と信仰者の生き方が語られている。
 私は、読める説教としても、著者の信仰に強く惹かれて、読了した。それは、説教に流れている、著者の信仰姿勢と牧会の内容、殊に全身でイエスに従う信仰の在り方が、そこに紹介される人物を通じ、印象深く、語られ、真実の信仰が示されているからである。
 これらの説教は、どれも著者がその牧師生涯の集大成として、述べようとした、更には広く知って頂こうとした内容と思われる。
 私の育った福音派牧師の説教姿勢のように、み言葉の権威を前提にし、神の言葉として、聖書を解き明かす説教の内容とは、やや異なるように思われるが、信仰者の生き方、信仰の在り方を聖書の言葉を媒介として語る、牧師としての真実の姿に、教えられることが多く、神のみ業を語り迫る説教というより、淡々と真実を述べる姿が印象深い。
 イエスへの服従としての、信仰者の献身の生涯がイエス像を眼前において語られるが、この混迷した時代には、贖罪愛に生きる具体的な姿のほうが、贖罪そのものの強調よりも必要であるように感じられたことである。
 故郷である北国で、小さい者への、愛と献身に生きる信仰者の姿が、この説教に生き生きと描かれ、深い感動を与えることである。

(評・斎藤篤美=日本同盟基督教団引退牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2010年11月21日号 =5面=掲載

『ローマ人への手紙講解I 1-3章』

榊原康夫著(教文館、2,940円税込)

 榊原康夫先生(日本基督改革派東京恩寵教会名誉牧師)のローマ書の講解が、教文館から出版される運びとなった。長年の師の講解説教の愛読者として、この上なく嬉しい知らせである。本書は、東京恩寵教会で1976年5月16日から1978年8月6日まで主日礼拝で語った連続講解説教をテープおこししたもので、日本聖書協会口語訳に基づく説教である。ローマ人への手紙の1章から16章までが全5巻で網羅される予定だ。本書の出版は30年以上も前に企画されたが、諸般の事情で実現しなかった。だが、東京恩寵教会の文書伝道の一環として、このたび現実となった。
 30年前に語られた説教だが、時代の変遷に伴い意味が不明となった例話が省いてあるため、全く古臭さを感じさせない。新共同訳聖書を読み親しんでおられる方々には多少の違和感があるかもしれないが、講解説教そのものはギリシャ語本文に基づいているのでたいした支障はないと思う。
 評者が師の講解説教を愛読するのは、榊原師がギリシア語原文に基づいて本文を丁寧に説き明かし、しかも単なる聖書の解説に終わらないで、ご自身の信仰に裏打ちされたメッセージを明瞭に語ってくださるからである。各々の講解説教の終わりには、メッセージが的確に要約された祈りが記載されている。このように、今回のローマ人への手紙講解も、愛読者の期待を裏切ることはないものである。個々の釈義の課題も詳細に、わかりやすく説明がなされ、しかも平易できれいな文章でつづられている。師の講解説教を生で伺う機会に恵まれなかったので、毎週主日礼拝でこのような講解説教を聴くことができた教会の方々が羨ましく思えてならない。
 デボーションとして日々、読み進めるにも、釈義や説教の学びに熟読するにも最適の書だ。敢えて、最後に苦言を申し上げるならば、第1巻の本体価格が2,800円で、全5巻であるので、個人で購入しやすい値段とは言えない。神学校や教会などで、ぜひそろえてほしいものである。

 (評・伊藤明生=東京基督教大学教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年11月14日号 =9面=掲載

『宣教学入門』

レスリー・ニュービギン著(日本キリスト教団出版局、5,460円税込)

 英国出身の宣教師、南インド合同教会の監督、国際宣教協議会などの指導者だった著者は、引退後、英国に戻って次々と宣教学の問題作を発表。『宣教学入門』は代表作OPEN SECRETの翻訳であり、日本語タイトルはその副題から採られている。OPEN SECRET(「公然の秘密」)とは、神の目的が福音において万人に告知されたという意味では開かれているが、他方、それは信仰の眼に対してのみ開かれているという意味で、隠された真理があることを指す。この「開かれながら」も「隠された」真実を理解することが宣教の根幹をなすという認識の下、著者は「権威の問題」や「選びの問題」を縦横無尽に論じる。
 前半は著者の宣教論の基礎が展開され、バルトやパスカル、アウグスチヌスなどが意識されての議論となっている。特に哲学者マイケル・ポラニーの影響が色濃い。後半は応用編、あるいは実践編となっていて「方法論の問題」や「他宗教の問題」などが扱われている。
 注目点を3つだけあげたい。・若き著者はリベラルな活動家だったが、ローマ書の研究を通して形成されたその後の神学は、むしろエヴァンジェリカルなものであった。ただし、「イエス・キリストが主であること」を公的真実と理解しつつ社会・政治へ積極的に関わった点では、従来のエヴァンジェリカルとは異なる。・著者の宣教論は、構造的に、三位一体の教義に立脚している。3〜6章にそれが深く展開されている。・宣教学者としての著者の面白さはその文化批評にある。特に西欧文化に対して、またそれと結託した宣教に対して厳しい。特に自由市場資本主義という西欧のイデオロギーは偶像崇拝の一形態であって、信仰的には克服されなければならないものとされる。
 本書が「入門書」と言えるかどうか自信がない。一般的入門書のイメージをもって読み始めると圧倒されることになるだろう。だが、宣教学分野で、新しい地平が本書の登場によって拓かれたことは間違いない。記念碑的な本書の刊行を心から歓迎したい。

(評・矢口洋生=仙台白百合女子大学教授)
週刊 『クリスチャン新聞』 2010年11月7日号 =9面=掲載

『わたしは良い嗣業を得た U』

中島秀一著(荻窪栄光教会、1,575円税込)

 本書(タイトルは詩篇16・6から)は、著者(荻窪栄光教会)の献身の道、牧師としての足跡を綴ったものである。
 「荻窪栄光教会には幾つかの遺産がある。遺産は確実に受け止められ継承されなくてはならない。それは大きな喜びであり、特権であると同時に、正直のところ大きな重荷でもある。クレネ人シモンがキリストの十字架を、あのドロローサの道で背負わされたことに似ている、と言えば大げさであろうか。」(p215)すぐれた先人から宣教/牧会のバトンを渡されて来た若い教職/信徒リーダーはみな同じ心境ではないだろうか。しかしそれらの遺産を、著者は「感謝の至り」と受け止める。
 「水鏡」のような著者の文章が冴える。観る者(読む者)の立つ位置で映り方が違って見える場面を、あるいは微妙に揺れ動くような出来事を、綺麗な文章ですっきりと映し出す。
 ・前時代の指導者との個人的なエピソードや紹介記事が、これもまた隠れた「教会史」となっている(中田羽後、安藤仲市、森山諭、本田弘慈・・・)。・日本の福音主義に立つ教会群(日本福音同盟前理事長、第5回日本伝道会議会長等々)のリーダーとして手の内を全部見せてくださる。どんな大会であったのか、どんな会議であったのか。参加した者には懐かしく、参加できなかった者には概略がわかる。
 就任の挨拶や祝辞、歓迎の辞等々、「ああ、こういう場面ではこういう話をしたらよいのか」とスピーチ参考集にもなる。・説教、例話が名前の通り秀一、いや秀逸。「キリストによる新しい人生」(p149ff)、「献金のめぐみ−10円玉を溝に落とした子供の話」(p12)や、「二人の青年の人生の分岐点」(p155f)、「恵まれる秘訣−雪どけ水の話」(p190)などは幾度聞いても心に響く。
 「主は全き人の日々を知っておられ、彼らのゆずりは永遠に残る」(新改訳詩篇37・18)。 若い教職・信徒リーダーの方々に、ぜひ読んでいただきたい。
(評・原田憲夫=日本福音同盟理事長、日本福音キリスト教会連合横浜緑園キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年10月31日号 =5面=掲載

『和解と教会の責任』

信州夏期宣教講座編著(いのちのことば社、1,050円税込)

 私たちが信仰の歩みや教会形成を確立する上で、本質的に重要な課題が幾つかあるのだと思う。本書の編者である「信州夏期宣教講座」が長年取り組んでいる課題は、そのような種類のものだ。地方伝道の現場から、腰を据えて日本宣教の課題に取り組もうとして始めた会が、今年で18回を重ねている。その特徴は、日本の教会の宣教史の考察から見いだした事実を心に刻んで、日本宣教への地に足が着いた取り組みを目指している誠実さにあるだろう。
 講座の貴重な内容を伝える本が出されるのは、これで12冊目とのこと。今回のタイトルは、「和解と教会の責任」。キリシタンの歴史を視野に置いた、山口陽一・登家勝也両氏の発表があり、和解の課題はそこにもあったと、新たに教えられる。他にも、戦中の日本基督教団の実態に即した研究や、ウェストミンスター信仰告白における国家観や戦争観の研究や、平和運動との関わりの報告等あって、内容は多彩で興味深い。
 このようなテーマへの取り組みは、私たちがある特定の立場に賛成・反対・ノータッチ・その他どのような態度をとるにせよ、そもそもそのテーマを巡る歴史的事実が課題としてあるのだと知るところから始まるのだと思う。そしてその事実を知ることが私たちに、教会とは何か、信仰とは何か、キリスト教とは何か、牧師として生きるとはどういうことか、といった基本的な理解を、根底から揺さぶる力を持っていることを経験させるのだ。私たちは、この経験によって初めて、この国でキリスト者として生きる納得と覚悟を得ていくのである。
 過去の11冊の内容も、20年を経て古びていない。極めて現代的なテーマを扱ったものばかりである。今も私たちは、アジアの隣国との関係に悩み、基地の課題を解決出来ず、国家主義の圧力に押され、真に人を活かす社会を形成出来ず、教会の内外に平和を造る実践に疎い者である。この講座は、恒久的で本質的な課題への良き導き手である。

 (評・広瀬薫=日本同盟基督教団総主事)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年10月24日号 =5面=掲載

『ルター 異端者から改革者へ』

T・カウフマン著(教文館、1,680円税込)

 ルター関連の著作・研究は、彼の死後4世紀半を過ぎても枚挙にいとまがない。それら研究文献を紹介する定期刊行物に『ルター年鑑』があるが、毎号200頁を超える。彼をどう評価するにしても、研究し尽くせない神学的・思想的・人物的奥深さが、この宗教改革者の内面に、またそこからほとばしり出た活動に認められるからである。
 本書もルターという多面・多層・多元的な人物像に促されて著わされた書であろう。深く沈思黙考する「隠棲的性格」と、説教者・論客・著者としての「開放性」、人との交わりを求める信頼感と底知れぬ不信感、「神のみ前に立つ」者としての自覚とこの世界のただ中にあるという意識など、ふつう二極に分かれる存在形態がルターにあっては力動的・弁証法的に彼の生涯と活動を形成していると著者は見、そこからルターの改革者としてのキャリアや神学が論じている。
 著者の「ルター」と、評者がこれまで接した類似書と異なっている点は、ルターをその時代的脈絡により密接して描こうとしているのに加えて、その「暗部」にも光を当てて論じている点だ。農民戦争下、蜂起者に対して殺害を促した彼の激烈な発言は、「一面的な情報や」、農民に対して「軍事的迎撃を急ぐ」人たちの不十分な情報に依存していたという指摘、キリストをメシアと確信するゆえ、キリストを頑なに拒むユダヤ人に対し「嫌悪を極度に高めてしまった」ことなどが、即事的に指摘されている。しかし、彼の「暗部」の指摘がかえってルターの奥深さを浮き彫りにしている。
 原著は入学したての大学生や高校上級生を対象としたルター入門書とのことであるが、内容は高度だ。ある程度の宗教改革史的知識が求められる。訳者が述べておられるように原著は複雑な構文で埋まっているのであろう。そのせいか訳文・訳語ともに、「直訳」感を与える。ただ原著を忠実・正確に再現しようとされた訳者の苦心を思えば、読者は精読を厭ってはならないであろう。   

(評・橋本昭夫=神戸ルーテル神学校教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年10月17日号 =10面=掲載

『ジャン・カルヴァンの生涯 下』

アリスター・E・マグラス著(キリスト新聞社、3,360円税込)

 本書は、イギリスの代表的神学者アリスター・E・マクグラスによる、宗教改革者カルヴァンについての評伝である。上巻は主としてカルヴァンの生涯の軌跡が辿られた。下巻は、カルヴァンの思想が西洋文化の形成にどのような影響を及ぼしたかについて述べられている。内容としては、「カルヴァンによるキリスト教(その伝達手段と伝達内容)(第7章・第8章)、「思想の浸透―カルヴァンとフランス」(第9章)、「一大運動の成立」(第10章)、「世界への参与―カルヴィニズム、労働、そして資本主義」(第11章)、「カルヴァンと近代西洋文化の形成」(第12章)である。
 宗教改革者カルヴァンの人と思想を紹介する書物は、既に日本語でも多数出版されている。その中で本書の特徴は何だろうか。第一は、本書は単にカルヴァンの人と思想を神学的に読み解くだけでなく、それらを社会学的視点で分析していることである。とりわけ、カルヴァンが改革に取り組んだ都市国家ジュネーヴや、彼が支援したフランス・プロテスタンの政治的、経済的、社会的状況に即した分析の記述などにそれが見られる。
 第二の特徴は、カルヴァン以降、彼の思想がどのように多方面に影響を及ぼしたかを的確に分析していることである。カルヴァンの神学が、どのような展開を辿ったのか。それを歴史学者としてあくまで実証的に分析している。さらにカルヴァンの思想がもたらした経済的影響は何か。マックス・ウェーバーの命題との関係など、資本主義との関係が検討される。さらには、カルヴァンの思想と自然科学の発達との関係など、彼の思想が西洋文化に及ぼした影響が包括的に扱われている。
 マクグラスは歴史学者としてあくまで資料に基づいてカルヴァンの真相に迫ると同時に、幅広い社会科学的見識によって彼とその思想を大きな歴史の流れの中に浮かび上がらせている。その意味で本書は、優れたカルヴァンへの入門書であると同時に、「カルヴァンとカルヴィニズム」への入門書である。一読をお勧めしたい。

 (評・袴田康裕=日本キリスト改革派教会園田教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年10月10日号 =5面=掲載

『おセイさんの泣いて笑って、また、あした』

俣木聖子著(やすらぎの介護シャローム、1,050円税込)

 俣木聖子さんとは高校のクラスメートだが、卒業後二十数年して再会したとき共にクリスチャンとなっていた。それからの俣木家の紆余曲折の日々を見ていて、信仰に生きるとはこういうことか、と思わされた。信仰が観念的なことでなく、まさに生きること、生活そのものであることを見せてくれた。この夫婦の信仰はハンパではないのだ。
 そしてきわめつきが、介護事業の会社「シャローム」の設立。神様は用意周到にこの家族を用いようとされていたと、私はそれまでの苦闘の日々の意味を理解した。
 本書は福音雑誌「百万人の福音」に連載されていた同名エッセイに加筆して発行されたものである。おセイさん節はますます研ぎ澄まされ、小気味よい。そのバイタリティとやさしさ、正直さにうなるばかりである。なにより笑いがある。実際、彼女の講演は会場を笑いで包む。「介護にユーモアをひと匙」と題した講演を聞いたが、大笑いしながら琴線に触れる内容だった。本書はそれに貫かれている。
 ここに書かれたことは、利用者の個人情報に関することは細心の配慮がされているが、事実をそのまま記した「作文」ではない。作者は作家である。真実を伝えるための工夫がなされている。だから面白く読める。
 そして、介護される側へ寄り添うと同時に、介護する側へのやさしい気づかいに読む者はなぐさめられる。彼女自身が親との同居での確執や、家族の気持ちを十二分に体験してきているからでもある。かくあるべし、こうすべき、それはまちがい、といった上から目線ではない。人間に対する深い洞察力と愛とが感じられる。
 私も現在家族の介護をしているが、本書は座右の書となった。同じような立場の友人も、「なぐさめられ、励まされる本」と愛読しているそうだ。介護職の人に限らず、老いていく家族を抱える人、老いに向かう人へのお勧めナンバーワンの本である。

(評・大谷美和子=作家)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年9月26日号 =9面=掲載

『このひとを見よ ヨハネによる受難物語』

遠藤勝信著(いのちのことば社、1,470円税込

 本書は、著者による「最後の晩餐」(ヨハネ13〜17章)を扱った前作『愛を終わりまで』の続編である。
 今回は、18〜21章の「受難物語」の解き明しとなっている。その際、「十字架のことばは、滅びに向かう者を圧倒的な威力を持って救い出すことができる、神の力そのもの」という確信に立ち、キリスト者の生き方に対するみ言葉の力が語られる。
 ゲッセマネの祈りと捕縛、大祭司アンナスの尋問、ピラトによる裁判と判決、十字架の苦難と葬り、復活と弟子たちへの顕現が、全8章に分けて、共観福音書を補完的に用いつつ、講解されている。その記述は、堅実な釈義と最近のヨハネ研究を反映しつつ、簡明で分かりやすい。読者は、そこに描きだされる受難のイエス・キリストの姿に心の目を向けるよう促されてゆく。
 「この人を見よ。」とピラトが言う先には、鞭打たれ、侮辱されたイエスが群衆の前に立つ姿があったこと。十字架と復活のイエスを見つめることで、読者は、自らの信仰を顧み、信仰上のチャレンジを受け、み言葉による希望を得、キリストを証しする歩みへと励まされる。
 本書は、著者が牧会する教会における礼拝説教からの結実であるとのこと。危機的状況の中にある信仰者をみ言葉の力によって、ある時には挑戦し、ある時には慰め、励ますという説教の醍醐味が各所に見られる。各章の冒頭にポール・ギュスターヴ・ドレの挿絵を配することで読者の想像力をかきたてる仕組みが施され、それぞれの場面を理解する際の良き助けとなっている。その意味で、受難節から復活節の聖書日課としても使いたい。日々の歩みにおいてみ言葉を生きるために必要なチャレンジと励ましを受ける目的で、じっくり味わいつつ読んでいただきたい一書である。
 近年の物語論的研究の成果も反映されると、さらに興味深いのではなどと、欲張りな願いを持って読了した。

 (評・小林高徳=東京基督教大学教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年9月19日号 =9面=掲載

『雨降りの心理学』

藤掛 明著(燃焼社、1,680円税込)

 本書は雨にこだわり、その多様なイメージを文学作品の中に見て取り、人間の姿を論じたものである。
 一読して「面白い」と思った。と同時に、心理カウンセラーである著者が、このような文学作品を独自の視点から論じている姿に人間性の豊かさと温かみを感じ、カウンセリングの世界における希望が膨らんだ。なぜなら心理療法やカウセリングは、専門技術もさることながら行き着くところ、人間学の素養が問われることになるからである。
 「雨」。これはなかなかのテーマだ。著者は「私が、なぜ雨に注目しているか。それは一言で言えば、人が自らの雨のイメージを語るとき、そこにその人の心や生き方が実に見事に映しだされるからである」と言う。本書を読まれる方は、序章の「雨の降る物語の秘密」を読んだ後に、自分の「雨降り」のイメージ・物語を想起し、人生を思い巡らしてほしい。
 すると、「雨の中を強硬突破」しようとしている自分の姿を見たり、「雨に癒され」、悲しみに別れを告げた頃を思い出したり、また雨の話には「傘」を巡る物語があり、母子関係に始まる心の旅路・人生行路の諸段階を振り返ることにもなる。著者は、これらの雨の持つイメージを文芸批評よろしく、26に及ぶ雨の降る文学作品を取り上げ、様々な人間模様を論じる。良く知られた幸田露伴、川端康成、芥川龍之介、林芙美子などの作品が登場し、興味をそそる。ふだん雨物語を集中的に読むことはないからである。
 筆者は終章の「雨と傘」の話に興味を抱いた。分けても「届け傘」に。子どもの頃に届け傘をしてもらった記憶が乏しいせいであろうか。本書にも登場する北原白秋の「雨雨、ふれふれ、母さんが‥」が好きだ。本書を読んで、苦しむ人、悲しむ人を「傘」にいれてあげることがもっとよく出来たらと思わされたことが、最も大きな収穫であった。 とにかく一読してほしい。

 (評・堀肇=鶴瀬恵みキリスト教会牧師・ルーテル学院大学非常勤講師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年9月12日号 =9面=掲載

『自殺者の遺族として生きる』

G・ロイド・カーほか共著(新教出版社、2,100円税込)

 夫のロイド・カーは旧約聖書学者で、我が国ではティンデル聖書注解シリーズ『雅歌』(いのちのことば社)の執筆者として有名である。彼の義理の娘が自殺し、彼は自殺者の遺族となった。しかしこの夫婦は25年間、そのことを誰にも告げず、隠し通してきた。そして、気の遠くなるような時間を経て、彼らはやっと口を開き始めた。
 本書は、夫婦の長時間にわたる喪の作業の経過を描いたもので、彼らの苦痛や悲憤との戦いから、やがて信仰の勝利へと導かれてゆく心の軌跡が見事に描かれている。また、詩人である妻の悲しみを吐露した詩が随所にちりばめられている。夫は聖書学者らしく、聖書は自殺というものをどうみているかということを、テキストに沿って明らかにしようとしている。本書の中でカーは、旧新約聖書の中に描かれている自殺関連記事をすべて抽出し、詳細に分析した結果、自殺はひどい苦痛や軍事的敗北など、屈辱的体験を回避するための名誉ある死であること、自殺は赦されない罪であるという考えは聖書主文のどこにも見いだせないということを、再三にわたり強調している。
 ユダヤ・キリスト教においては、自殺者の遺体を冒涜的に扱ったり、埋葬を拒否したという事実はなく、他の死者と同じように家族の墓に埋められることが多いとしている。このことは、彼らが自殺を、他の死と異なった特殊な死とは見なさなかったことを意味しているのではないかと述べている。
 さらにカーは、古代哲学者や教会教父が書いた自殺に関連する文献を渉猟し、その後の教会の自殺に対する態度に決定的な影響を与えたアウグスティヌスとトマス・アクイナスを俎上に上げる。前者は、迫害の中での殉教者賛美の行き過ぎを危惧して十戒を拡大解釈したものであり、後者は異教世界で流行しているアリストテレスの哲学の影響を強く受けているとし、いずれの主張も「自殺は赦されない罪である」という結論を下す根拠とはなり得ないと断じている。

(評・平山正実=聖学院大学大学院教授)


週刊 『クリスチャン新聞』 2010年9月5日号 =5面=掲載

『ロイドジョーンズ ローマ書講解6章』

D・M・ロイドジョーンズ著(いのちのことば社、3,990円税込)

 ロンドンの中心部バッキンガムゲイトにあるウェストミンスター・チャペルにおいて、1955年から引退する1968年にかけて、ロイドジョンズは、ローマ書を講解していた。その邦訳がすでに1巻、2巻と出されたが、いよいよ待望の第6章の講解の邦訳が、今回出版された。
なぜ6章の講解が待望されるのか? その理由を想像するに、恐らく、ローマ書の中で6章が最も難解であるからではないだろか。さらに、この章が理解できれば、ローマ書全体が見えてくる、と言えるほどの章であるからではないだろうか。
 著者は、序文の中で次のようなエピソードを語っている。
 「とある日曜日の晩、ウェストミンスター・チャペルで行なわれた夕拝後に、ひとりの高名な説教者が牧師室にやって来てこう言った。『君は、いつになったらローマ書の連続講解を始めるのかね?』私は言下に答えた。『6章が本当に理解できた時です。』他の多くの人々と同じく、それまでの私は何年もの間この章のことで頭を悩ましていた。…」
 このように苦悩した末、ついに満足のいく6章の理解に達し、彼はローマ書全体の講解説教を開始したのである。実にこのような章が、このローマ書6章であり、その講解が本書なのである。
 私は、今から30年ほど前、牧師になりたての頃に、ロイドジョンズの講解説教『山上の説教』を読んだ時のあの感動を今でも忘れることができない。今回の『ローマ書講解6章』も同じである。彼の説教は、実に懇切丁寧で、理解できるまで繰り返し教える、という説教である。
 恐らくこれを読む者はみな、きっとこの説教に引きつけられ、6章だけでなくローマ書全体から、神の声を聴きたいという強い思いに駆られることだろう。いつか、ローマ書全部の講解の邦訳をと期待する者のひとりとして。

(評・小寺肇=日本同盟基督教団野沢福音教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年8月29日号 =9面=掲載

『ペンテコステ神学の基礎』

ガイ・P・ダフィールドほか共著(日本フォースクエア福音教団出版、5,000円税込)

 本書は、国際フォースクエア福音教団の2人の牧師、神学者により著されたFoundations of Pentecostal Theologyの翻訳。聖書論、神論、人間論、罪論、救拯論、聖霊論、神癒論、教会論、天使論、終末論からなり、限られたスペースだが、それでも各論を少なくとも40頁以上にまとめ(聖霊論は約130頁)、全体で750頁以上の大作になっている。フォースクエア教団の歴史的信仰基盤である、「フォースクエア(4つの堅固な)福音:救い主、癒し主、聖霊のバプテスマを授ける主、再臨の主」、また主要教理である「神のことばとしての聖書、三位一体の神、主イエス・キリストの神性と人性、十字架によるあがない、漸進的聖化、神癒、聖霊のバプテスマ、キリストの再臨」に基づいて、信徒の方々のための教理読本として準備されている(Signs、第5号、109頁参照)。この類のものはしばしば難しくなりがちであるが、分かりやすくまとめられ読みやすいので、個人的にも、教会の学び会などでも十分活用できるだろう。
 では、フォースクエア教団(または聖霊派)に属さない者として、本書をどのように利用することができるか。「聖書は聖霊のことばである」との明確な確信に基づいて準備されているので、実際に本書を読んで教えられることは多い。もちろん、聖霊派の間でも見解の違いのある「聖霊のバプテスマ」や「異言」などについての説明を、そのまま受け入れることは難しいだろう。ただ、両者間にある違いとともに、聖書的な共通理解を発見、また確認する良い機会にもなると思われる。組織神学的、歴史神学的な議論が少なかったり、釈義・解釈的精査がないままで聖書の重要個所が引用されていることの心配はあるが、このような読みやすい教理読本が日本においても出版されたことを歓迎したい。とにかく本書を通して、「聖霊的」とは、実は「聖書的」なことであることが実証されていると言えるだろう。聖書と聖霊の恵みを分かち合っていきたい。

 (評・渡辺睦夫=同盟福音キリスト教会岩倉キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年8月22日号 =5面=掲載

『いま、平和への願い 語り継ぐべき戦争の記憶』

いのちのことば社編集部編(同社、1,260円税込)

 ここにある証言は、戦時中に若者であった人々による、いまの若者へのメッセージであり、戦後、約65年もの時をかけて、「いま」ようやく語りだせる告白である。
 原野博之氏は、忘れたいと願いつつ忘れられず、語れずにきた被爆体験を告白している。広島の原爆後に帰宅すると、家族は見つからず、頭の骨が一つ落ちていて、しかたなく脊椎だけをポケットに入れた日のこと。傷にうめく人を助けられなかった日のこと。
 戦後生まれの娘、森ゆかり氏は被爆2世として寄稿して、父親は被爆体験を語らなかったが、孫の学校から依頼されてようやく語ってくれたとき、壮絶な体験の重みを実感したと言う。
 朝鮮の仁川で牧師の子として育った石丸新氏は、京城の朝鮮神宮で学校行事として行った参拝に心を痛めてきた。その39年後にこの跡地を訪ねて、涙と悔改めの旅をする。「私が参拝した朝鮮神宮は、当時の朝鮮の心あるキリスト者が死をも恐れることなく参拝を拒否した朝鮮神社であったからである」と語る。朝鮮半島で信仰弾圧による投獄者は約2000人、殉教者は50人にのぼる。自分の育った旧日本メソジスト仁川教会の場所を訪ねたが、写真を撮るだけで精いっぱいだった。しかし、1995年に韓国から突然の電話を受けて、神の摂理に驚く。同じ地に、長老派の教会が建ち、50周年を祝おうとしていた。
 その他、幅広く貴重な文章ばかりが掲載されている。わずか14歳ほどで参戦した海軍特年兵の体験、風船爆弾とは知らず、工場で作業をした女学生、広島の原爆と苦悩の証言が記録されている。市民として朝鮮、樺太、ルソン島で、また従軍医としての南方での戦争体験が語られている。
 本書はとにかく読みやすい。当時の状況が分からない世代への配慮に満ちていて、新聞の切り抜き、地図、航空写真、註が多く沿えられている。若い世代に読んで欲しいと願う編集者の努力が伝わってくる。 (評・宮崎誉=日本ホーリネス教団鳩山のぞみ教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年8月15日号 =9面=掲載

『札幌宣言 21世紀における教会のチャレンジ』

第5回日本伝道会議宣言文起草プロジェクト編(1,470円税込)

 本書は、2009年9月21〜23日に札幌で開催された「第5回日本伝道会議」の結実である「札幌宣言」の解説書であり、その今日的なリレバンスを探る2つの座談会から成っている。
 まず、解説と座談会が互いに呼応し合っているところに本書の価値がある。宣言文起草委員が座長となり、それぞれの座談会に伝道会議の実行委員長とプログラム委員長を配置し、伝道会議には出席されなかった外部の有識者による「札幌宣言」の分析・評価が示され、今後の課題が指摘されている。伝道会議の当事者とそれを「少し離れた」ところから評価する取り組みに、時代の危機感を検証し、教会の使命を再確認しようという意気込みが感じられる。
 宣言も座談会も今日の時代の「危機」を問うことから始める。札幌宣言は、日本プロテスタント宣教150年という「時」を意識し、北海道・札幌での開催を踏まえて「アイヌ民族」への課題も視野に入れつつ、この時を「危機の時代」と位置づけ、その中でのキリストにある希望とその使命における宣教協力が謳われている。その宣言文を宣言文起草委員がそれぞれの個所を担当して、一文ごとに簡潔な解説文を書いているのが特徴である。また、後注や「ディスカッションのために」とした質問文を加えて、この宣言文を広く教会の人々にも学べるよう配慮されている。
 座談会・「危機の時代を超えて」では、「危機の時代」そのものを問い、そこにある教会のあり方や国に対する使命という事柄が議論され、マクロ的なものとなっている。座談会・「今日の危機と教会の使命」では、実際の危機としての「孤独」の問題が取り扱われ、人間の関係性が分断する社会とその影響下の教会、福音の持つ交わりの力による回復が議論され、より具体性を帯びたミクロ的な討議となっている。宣教協力の主体としての教会の「共同体性」の意義と方向性をそれぞれの座談会の主眼点に即して総括されるならば、2つの座談会がなお「響き合った」ように思える。

(評・倉沢正則=東京基督教大学学長)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年8月8日号 =9面=掲載

『カルトと新宗教』

D・E・コーワンほか著(キリスト新聞社、2,940円税込)

 本書は新宗教を社会的・文化的・歴史的文脈に即して理解しようとするものである。名前はよく聞くがその実態についてはあまり情報のなかったアメリカの代表的な新宗教についてのケーススタディから成り、それぞれの教祖の生い立ちや教義、社会的に問題となった事件の背景などが簡潔に記されている。
 反カルト運動の視点から書かれた本を目にする機会が多いが、社会学者の新宗教に対する見方は一般的に中立であり、さらには新宗教の中に積極的な意味を見いだしていこうとするものもある。本書は社会学的視点によるカルト論の系譜に属する。福音派の対抗カルト運動、非宗教的反カルト運動、主要メディアのカルトに対する言及の多くが、先入観と事実誤認に基づくものであるという点を詳細なケーススタディによって例証している。
 また反カルト運動が過熱すると威圧的暴力的になることを、ウェーコー包囲事件やファミリーに対する強制捜査などを例に具体的に描き出している。統一教会などに対してよく言われる信者への「洗脳」についても、社会学者がそれを支持しているわけではないと論じている。
 著者は新宗教を「自分たちの『見えざる秩序』に調和的に自らを適応させる」試みと定義しているが、それが社会の支配的なビジョンと衝突する過程を通じて、新宗教をただそれ自体で説明するのではなく、社会全体のコンテキストの中に描き出そうとしている。新宗教を既成の社会に対する対抗運動と捉えることによって、社会全体に対する問題提起の可能性を問うており、支配的であった特定の伝統に挑戦するという意味で、キリスト教も事実上新宗教運動だったのだと述べている。
 ただ本書において宗教の定義における「機能的」側面に強調が置かれているため、キリスト教や他の新宗教の本質的な違いが不明瞭になっているきらいがある。読者は本書を読みながら多元論的な結論に落ち込んでしまわないよう気をつける必要があるだろう。 

(評・渡辺聡=東京バプテスト教会牧師・青山学院大学宗教社会学非常勤講師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年8月1日号 =9面=掲載

『殉教と殉国と信仰と』

高橋哲也ほか共著(現代書館、1,680円税込)

 本書は2008年秋、長崎で執り行われたカトリック教会の「列福式」を巡り、翌年11月に開かれたシンポジウムとその後の対談の記録。「列福」とはカトリック教会において功徳を認められた信者たちに「福者」としての地位を与える式典で、その多くは信仰のため殉じた殉教者たちが対象だ。キリスト教会における殉教と列福の思想を巡る哲学者の問いに対し、仏教学者とカトリック司教がレスポンスするという興味深い内容だ。
 高橋哲哉氏は、信仰のため殉じる殉教とその死を顕彰する列福の思想と、国家のため命を捨てる殉国とその死を国家が顕彰する思想、特に日本の文脈における靖国の思想との間の相似性を指摘し、また歴史においてしばしば殉教の思想が殉国の思想に吸収されていった事実を指摘する。国家や教会という「権威」が人の死に意味づけをし、美化し、顕彰することの中に潜む死者の序列化の問題も鋭く指摘する。プロテスタント教会には殉教の神学が欠けているとの指摘がままあるが、他方、カトリック教会でこれほど殉教が積極的に意味づけられ、殉教者が顕彰される背景には、義認論を巡る両教会の理解の違いが横たわっているのだろう。しかし、それで殉教の問題を素通りにはできない。ここには信仰の告白、証しが誰に対し、どのようになされるかとの問いも含まれる。高橋氏は「信仰の証しは果たして必要か」との問いを投げかける。信仰という内面の事柄が外面に現れるとき死を顕彰する論理が入り込んでくるのではないか、と。キリスト者はこの問いにどう答えるのか。真の意味で告白的な信仰の確立が問われる。
 一読し、殉教が美化されることより殉教に至るまでの服従と抵抗こそ私たちにとって重要な意味を持つことではないかとの感想を抱いた。「殉教は大切なテーマであるが、大声で論じると嘘になってしまう。これはできるだけ低い声で、悲壮感を全部そぎ落として、神の国を望み見た確たる喜びをこめて語られなければならない」(渡辺信夫師)と思うからだ。
 (評・朝岡勝=日本同盟基督教団徳丸町キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年7月25日号 =5面=掲載

『もういちど会える日まで』

遠藤芳子著(いのちのことば社、1,260円税込)

 本書の著者、遠藤芳子師は、『ヨセフの見た夢』など素晴らしい説教集を出され、2007年6月23日にALS(筋萎縮性側索硬化症)のため47歳の若さで召天された遠藤嘉信師の奥様です。遠藤芳子師も聖書宣教会で聖書を3年間学び、そこで遠藤嘉信師と出会いました。
 本書は2部構成となっています。1部は遠藤嘉信師のALS発症から召天されるまでを妻の視点で描いています。2部は遠藤嘉信師の召天後の礼拝で著者が語った6回のメッセージを収めています。
 著者の献身者としての歩みは決して平坦なものではありませんでした。牧師夫人としての立場で希望に満ちて教会に赴任直後、筋ジストロフィーを発症し、自分の存在の意味を主の前に問う日々を過ごします。一人で歩くのもままならない状況下、ご主人がALSを発症、2年後に召天。深い悲しみの只中にある数か月後に、乳がんを発症し手術。その後娘さんも病気に…。耐えられない事態が次々と著者を襲います。主と格闘するかのように祈り、御言葉の中に主の御心を尋ね求めます。
 聖書から忠実に語る著者の説教、それは一連のこれまでの出来事を自身の視点からではなく、あくまでも聖書の光に照らし、主の視点で見つめようとする著者の真摯な試みでもあります。「一人の弱い生身の罪人と主との真剣な語り合いそのもの」が伝わってきます。
 著者自身、決してご主人との別れの悲しみがなくなったわけではないと語ります。しかし悲しみも死も、圧倒的な主の臨在と主の愛の前では無力であることを語ります。柔らかな一言一言の中に説得力があります。本書を読み終えた時に私の心に浮かんだ言葉、それは「主の温もり」というものでした。御言葉から、主の素晴らしさ、主が味方であることの大いなる幸い、主の温かな眼差しが浮き彫りになります。そして「主の臨在の中に生きる」「御言葉に従って生きる」とは、具体的にこういう歩みをすることなのだと深く思わされました。

(評・波多康=ゴスペル企画ミニストリー代表)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年7月18日号 =9面=掲載

『和解と癒し』

世界教会協議会 世界宣教・伝道委員会編(キリスト新聞社、2,310円税込)

 本年は世界宣教を考える最良の年だ。本書の表題「和解と癒し」は宣教理解の鍵になる。
 1910年のエジンバラ宣教会議から100周年の本年6月、同地において世界教会協議会(WCC)が「エジンバラ2010」を開催した。WCCは準備を2002年に始め、2005年には世界宣教・伝道委員会によるアテネでの第12回世界宣教会議を開き、その最終日に、「現代の寸断され、破壊された世界へ派遣され神の宣教に参与している諸教会は、キリストにおいて和解し癒す共同体となるよう招かれている」と発信した。
 本書はこのアテネ会議に向けた討議文書集から「和解のミニストリーとしての宣教」と「教会の癒しの宣教」の全訳を掲載する。教会は神の和解と癒しのために働く。神の宣教(ミッシオ・デイ)は和解の宣教として定式化された。癒しを包括的に定義しWHOの健康の定義に影響を与えた。社会的な平和や健康の実現努力、礼拝式での和解と癒しの表現などの積極的取り組みに表された精神は「エジンバラ2010」共同宣言の第2条、第3条、第7条に生かされていく。
 本書巻末の世界宣教会議小史は、西洋中心から六大陸交流型への移行、魂の救いから社会性を包括する救い理解への移行、貧困、抑圧、環境破壊からの解放の目的化、多元的文化という文脈理解など、WCCの宣教概念の変遷把握に役立つ。
 「和解と癒し」の多様な宣教に聖霊の働きが深くかかわるとの認識が近年の特徴だ。「癒し」に関して現代医学を肯定し超自然的癒しを否定する合理主義的理解の反省が見られる半面、聖霊論への議論の傾きに対するWCC内部の批判もあるようだ。
 本年10月、南アフリカで第3回ローザンヌ世界宣教会議が開かれ、福音派諸教会は21世紀の教会内外の不純と苦しみに正面から取り組む。昨年私たちは、日本プロテスタント150年と日本伝道会議で歴史と展望を得た。今年は世界での「和解と癒しの主」のお働きに着目する好機である。

(評・正木牧人=神戸ルーテル神学校校長、西日本ルーテル伊丹教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年7月11日号 =5面=掲載

『公共福祉という試み』

稲垣久和著(中央法規、2,940円税込)

 21世紀も「最初の10年」が終わりかけている。同時多発テロから始まった21世紀。地球温暖化や貧困、格差、民族紛争などの地球的問題。ビジネスマンのうつ病や自殺の増加、無縁死などの社会問題。いじめや離婚など家族の問題まで、さまざまな問題を抱える21世紀。そして世界同時不況の真っただ中の21世紀。「新しい時代」への期待や希望はどこへ行ってしまったのだろうか…と。
 そんなことをツイッターにつぶやきたくなったとき、『公共福祉という試み』が出た。著者は、東京基督教大学教授であり、公共哲学を専門とする数少ないキリスト者であり、その社会的発言は私たち信仰者にとっても貴重なものである。この本が私たちに語りかけることは─21世紀を希望ある変革の時代とするためには、私たち自身の考え方を変革させなければならない─ということだと受けとった。
 「公共福祉」ときいて私たちは何をイメージするだろうか。間違いなく国の福祉政策を思い描くであろう。公共というとき、私たちは「公」に重きをおいて考えてしまう。福祉は国家がやるものと思い込んでいるから。
 しかし、著者は「公共」は「共に」に力点が置かれるべきだと説く。そして、「人が共に生きる、共に支え合う、共に助け合う…。その主役は地域に生きる人間ないしはコミュニティ」であって、そのとき「国家という大きな装置は背後に退く」と。そして著者は政府が「新しい公共」を掲げたことを評価し、その意義と可能性を説くと同時に、「ただ、政府サイドからいわれても、市民が率先してやらなければ、『新しい公共』は単なる絵に描いたモチになる」と厳しく指摘する。
 本当に「公共」という言葉の重心である「共に」ということが、私たち市民に委ねられているものであり、私たち市民が真剣にそれを学び、「公」の依存から抜けて、市民として「自己鍛錬」し、社会を開いていく─まさにこの変革こそが、21世紀に希望を与えると感じた。

(評・小川巧記=オイコスチャペル牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年7月4日号 =9面=掲載

『ジョン・H・ヨーダーの神学』

東京ミッション研究所ヨーダー研究会編(新教出版社、1,995円税込)

 私の信仰と神学に大きな影響を与えた神学者が数名いるが、ジョン・H・ヨーダーはその1人である。初めて足を運んだ教会がメノナイト教会であり、そこでの出版物などを通して間接的かつ断片的に情報を得ていただけであったが、1992年に彼の主著『イエスの政治』が翻訳出版されたとき、イエスが開始した神の国に生きる弟子たちの生き方、教会のあり方が、社会と緊張を持った聖書的リアリズムで、しかも神の国完成に向けての終末的展望を持って明快に展開されているのを見た。
 以来、彼の著書はさらに2冊翻訳され、東京ミッション研究所は「ヨーダー研究会」を組織してきた。この本は、その研究会での発題論文3編(中島真実氏の「ヨーダーの神学的倫理学における方法的思想構造」、藤原淳賀氏の「ジョン・ハワード・ヨーダーの神学−その重要性と課題」、矢口洋生氏の「J・H・ヨーダーの平和神学、平和倫理」)と東方敬信氏の序論的論文「ヨーダーは生きている−キリストと文化再考、証しの神学」、来日講演されたネイション氏の論文「『社会的責任』か、十字架のつまずきか−ヨーダーにおけるキリスト者の責任性」から成っている。
 ヨーダーに興味を持ちつつも英文著作まで読んでいる人は多くはないであろう(他ならぬ評者もそうである)。そのような人にとって、ヨーダーをよく読み、それをキリスト者としての倫理や教会の形成と社会への証し、そして神学する方法へのチャレンジとして受けとめてこられた方々が、それぞれの視点から紹介してくださったことは大きな恵みである。
 特に、国家と密接な関係を持つ西欧教会の“コンスタンティアニズム体制”に違和感を覚える日本の福音主義教会に属する多くの人にとって、ヨーダーの「キリストの弟子としての平和追求」の意味と論拠を学ぶことは不可欠だと信じる。彼の著書とともに本書を手に取り、いろいろなグループで議論されるようお奨めしたい。

(評・河野勇一=日本バプテスト教会連合・緑キリスト教会牧師、東海聖書神学塾・塾長)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年6月27日号 =5面=掲載

『心からわき出た美しい言葉 詩編45編の講解』

マルティン・ルター著(教文館、2,625円税込)

 ルターの詩編45編の講解は、同一訳者による、詩編90編(生と死の講話、2007年)、詩編51編(主よ、あわれみたまえ、2008年)に続くものである。
 ルターは1513年、ヴィッテンベルグ大学の教授となって、初めての講義を詩編講解で行った。それ以後、詩編を何回も講義、説教し、また、日常の祈祷文を通して詩編に親しんだ。
 ルターの詩編についての考えは、詩編序文によく言い表されている。「詩編は1冊の聖書と呼ばれてよいのであって、その中には全聖書の中にあることが最も美しく、また、最も短く含まれている」
 1530年にアウグスブルグ国会が開かれ、ルター派の教会は完全にローマ・カトリック教会と袂を分かつことになった。新しく教会を建て上げるという困難な状況の中で、ルターは、150編の詩編から特にこの45編、51編、90編を選んで講解した。
 ルターはこの3つの詩編によって、信仰者と教会を励ますことができると考えたのである。教会にとっても、個人の信仰者にとっても、まず必要なのは、詩編51編にあるように、罪の悔い改めと、神のあわれみによる赦しへの信仰である。
 さらに、詩編45編にうたわれているように、信仰者の魂とキリストとが固く結ばれることである。45編10、11節に進むと、教会とキリストとの美しい関係が描かれてくる。詩編51編の講解が、ルターの義認論を解明する講解であったとするならば、45編では、「霊性の探求者」としてのルターの姿が描かれている。神学的にも文化的にも混迷している現代の状況の中で、宗教の核心である「霊性」の探求者ルターを考察するという今日的な意義を持っていると言えよう。
 そして最後に詩編90編による「死のただ中での生の発見」という喜ばしいおとずれによって信仰者はいつも生き、そして死ぬのである。
前2書と同じく、著者は直接ワイマール版(WA40、II、472-610)からこなれた日本語に訳しておられる。

(評・鍋谷堯爾=神戸ルーテル神学校教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年6月20日号 =9面=掲載

『宗教の発見』

村田充八著(晃洋書房、3,780円税込)

 日本人や日本社会を知ることは日本宣教には欠かせないが、教会と日本社会との距離はますます遠ざかっているように思われる。その一因には、日本社会とキリスト教との接点を見失っていることにあるように思われる。本書はその点で示唆を提供するものとして紹介する。
 本書は社会学の学術論文の体裁をとっているため、一般の人には読みにくいかもしれないし、『宗教の発見』というタイトルにも、一般のクリスチャンにはなじみがないかもしれないが、本書の大部を占める3〜5章では、むしろクリスチャン向けに、なぜ日本のキリスト教は伸びないのかを問いかけ、筆者の感性を持って訴えているかのように思われる。社会にはだれかの命令やみんなの意見によるのではなく方向付けられたもの(エートス)があり、それが全体としての社会の行動を大きく決しているが、日本におけるキリスト教伝道という視点から、それを掘り起こし、日本のキリスト教の将来の展開に基礎付けを与えようとするものであるともいえる。
 第2章では、関西では有名な、大阪府と奈良県の境にある生駒山系の山岳信仰(石切山、生駒聖天、信貴山など)に見られる民衆の宗教意識を実態調査に基づいて記述しており、いささか一般の人には読みづらい部分かもしれないが、そこに見られる民衆の宗教心・信仰心といったものは、この国で伝道していくために無視してはならない、人々の心が見える所であろう。カルヴァンは、罪人の中にも残されている「宗教の種子」を指摘しているが、キリスト者と非キリスト者との接点はこの点にあり、この点の見極めを十分にできないと異教社会日本での伝道は思うように進展しない。
 そのような日本社会におけるキリスト者のあり方について、本書では、改革派信仰を一つの例として表記しているが、基本的には日本のキリスト者の一般的な姿であろう。そんな日本人キリスト者や日本のキリスト教もまた、日本社会に影響を与えていることは事実である。真摯に日本宣教を考える上で、一読をお勧めしたい。
(評・櫻井圀郎=東京基督教大学教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年6月13日号 =5面=掲載

『技術社会を〈超えて〉 ジャック・エリュールの社会哲学』

松谷邦英著(晃洋書房、3,360円税込)

 ジャック・エリュール(1912〜94)は、『技術社会』その他の邦訳を通して日本でも知られたフランスの社会学者である。
 本書は彼の著作の社会哲学および神学について、若手研究者が博士論文としてまとめたもののエッセンスだ。時代考証を踏まえたエリュール思想の意義が説かれている。特に最終の第6章には彼の「ヨナ書」解釈が取り上げられる。
 神に選ばれたヨナは「世界」に耳目をふさいで眠り続ける一方で、異教徒である船乗りたちは嵐に恐れおののきながら、船荷を軽くしようと必死に奮闘する。エリュールによれば船乗りたちは船の運命(歴史)に全責任を持つが、そもそもその船が置かれている難局の霊的な原因はヨナにある。
 前者は、おののきつつも、あらゆる人間的努力によって、自らが置かれた状況に対処するだろう。それでも嵐が鎮まらないとみるや、彼らは彼らの神々に訴える。「世界」の成り行き、事態の推移によって、ヨナは眠りから覚醒させられる。ヨナは自らの力で眠りから覚めたのではなく、しかもその後に、荒れ狂う海に人身御供のごとく放り込まれた。飲み込まれた鯨の腹は救いであったのか、地獄であったのか。
 高度技術に取り囲まれた現代の個人はちょうど鯨の腹の中の遺物のようだ。キリスト者としての自覚はどのような生き方を我々に迫るのか。単に個の救済にとどまるのか。著者は「そうした個の救済と精神的蘇生という方途は、むしろコミュニティや公共性の再生、公共哲学の復権こそが最優先の知的・実践的課題とされる現代的状況において、どれだけ有効であるのだろうか」(本書209頁)と問いかける。
 この問いかけはまったく正しい。しかし他方で、公共哲学とは「『個人』の制度的救済」(209)なるものを主張している哲学であると著者が理解しているとするならば、それは大きな誤解である。
 今後の展開を大いに期待させる作品である。

(評・稲垣久和=東京基督教大学教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年6月6日号 =9面=掲載

『キリスト教と民主主義』

ジョン・W・グルーチー著(新教出版社、3,780円税込)


 本書は、教会が民主主義をどう聖書的、神学的に評価し、実現するべきかを包括的に論じた、民主主義に関する本格的な神学書である。全体は、概要を紹介する短い序章と、「システムとヴィジョン」「歴史的・神学的連関」「教会と民主化闘争」「批判的な神学的考察」の4部で構成されている。
 第1部と第4部は、民主的なヴィジョンについての聖書的・神学的な、内容豊かな論考である。第2部は「キリスト教世界」の成立から20世紀までの、キリスト教と民主主義の歴史的関連を概観している。西欧の近代民主主義が単なる脱キリスト教化ではなく、その歴史においてキリスト教が思想的にも行動的にも深く関係していることが明らかにされている。第3部は、現代における民主化闘争において教会がどのように関わったかを批判的に検証している。
 本書は神学的にも事例的にも、キリスト教が社会的主流派である世界に属している。しかし、扱われている「民主主義」という主題は全人類に共通する価値であり、実現すべき課題である。キリスト教が社会的少数者である日本において、教会はともすれば閉鎖的で、自らの存続と成長を目的としてしまいがちである。そのような現実に対して、本書は教会が本来的に抱くべき神の「シャローム」のヴィジョンをはっきりと示してくれる。それを日本においてどう生き生きとしたヴィジョンとするか、これからじっくりと考え、取り組んでゆこうと思わされた。
 私にとって特に印象深かったのは、民主主義を三一論に基礎づけた議論と、次の一文である。「教会が社会の民主的秩序に対して提供できる最も真正な支援は常に、教会そのものの中における効果的でますます深まっていく交わりの実践である」(284頁)。
 教会は常に、この世の現実よりもいっそう神の国を表すものでなければならないということか。

(評・石田学=日本ナザレン教団小山教会牧師、日本ナザレン神学校教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年5月30日号 =5面=掲載

『心の刷新を求めて』

ダラス・ウィラード著(あめんどう、2,520円税込)

 なぜ、自称キリスト者がこの世と妥協して生きているのか?
 著者は米国の霊性神学の第一人者で、自国の教会の霊的状況を憂えて本書を執筆したのだという。
 クリスチャンホームで育った若者の問題行動、子どもへの忍耐が足りない父親、他人への批判を止められない主婦、離婚の増加。指導者の逸脱行為とパワハラ、教会の分裂。何年も教会に忠実に集っていても、自称キリスト者の多くがこの世と妥協した生き方をしているのはなぜか。真の変化、霊的成熟は理想に過ぎないのか? 表紙の紹介文にはそう記されている。
 著者は「私たちは心で生きています。私たちの人生を動かし、仕切っているのは、肉体的な部分ではありません。…そういうわけで、あなたや私(そして人類すべて)にとって何よりも必要なのは、心の刷新です」(本文より)と、本書冒頭で書いている。
 教会人は、教会の組織を整えることやさまざまな活動プログラムに忙しくしているが、牧師にとっても信徒にとっても最も必要なのは心の刷新(内側からの変容)、なのに、それが忘れられていることが問題を深刻にしているという。日本の教会もよく似た状況ではないだろうかと、深く共感した。
 キリスト者が自分の行動を外見から変えようと努力することは無益であるばかりでなく、有害であり、キリストの心を持たない形式主義、律法主義に陥らせる危険がある。キリスト者が自らの弱さや内なる悪の現実から目をそらして、現状に安住するのを強化することになってしまうからだという。
 ではどうすればよいのか。自分の貧しさと真摯に向き合い、ひたすら神の恵みに頼ることであると著者は言う。そしてそのために必要な道筋を丁寧に記してゆく。特に牧会者に読んでいただきたい書だと思った。
 欲を言えば、どのようにすれば神の恵みに(臨在に)与れるのかの、著者の体験に基づいた具体的な導きがもう少しもらえたらと思った。

(評・高橋伸多=日本同盟基督教団教師、みくに・ひとやすみ代表)


週刊 『クリスチャン新聞』 2010年5月23日号 =9面=掲載

『ホーリネス信仰の形成』

(日本ホーリネス教団、7,035円税込)

 本書は、日本ホーリネス教団の中堅リーダーたち、否むしろ前線指揮官たちによって執筆された日本ホーリネス教団史である。
 2001年は、中田重治によって始められたホーリネス宣教活動が、100周年を越えて、およそ大小12団体を日本国内で形成している。ホーリネス100年を記念して、日本ホーリネス教団の角度から「日本ホーリネス教団史」が企画された。この度、日本ホーリネス教団史第1巻『ホーリネス信仰の形成』が教団歴史編纂委員会の手で執筆出版の運びとなったものである。内容は大部である。
 まず歴史編纂のため、歴史観と叙述の在り方をめぐって取り扱い方針が語られる。次に前史として、アメリカの信仰復興運動の歴史が語られ、第三次信仰復興運動の中に、ホーリネス運動が始まったこと。続いて日本のプロテスタント教会史の始まり、諸教派の成立と、19世紀に成立したホーリネスを語る諸教派について記している。
 ホーリネス教会は日本で1901年(明治34)神田福音伝道館より始まる。最初は、ムーデー聖書学院に留学した中田重治とカウマン夫妻が出会って協力した。
 1911年聖教団事件で日本人と宣教師が対立した。1913年東洋宣教会ホーリネス教会が設立される。1919年(大正8)と1930年(昭和5)に教会は信仰復興を体験して教勢が拡大する。しかしその絶頂において中田監督の教理的脱線により、2つに分裂する体験を余儀なくされた。
 歴史編纂委員会の村上宣道委員長は「はじめに」の中で「…歴史を検証する時にも、人間的に見るならば、そこにはホーリネスの麗しさばかりでなく、挫折、逸脱、行き過ぎ、妥協、分裂が見られる。だがホーリネスを生きることに命を賭けて闘った先達に敬意を表さずにはいられない」と記している。少々高いが、この本をぜひ読まれるようにとお勧めする。第2巻では、日本国家によるホーリネス弾圧が扱われる。期待したい。

(評・本間義信=ウェスレアン・ホーリネス教団玉川キリスト中央教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年5月9日号 =5面=掲載

『日本プロテスタント宣教史』

O・ケーリ著(教文館、1,410円税込)

 本書は、アメリカン・ボードから派遣された宣教師オーティス・ケーリ(1851〜1932)が1909年にニューヨークで出版した”A History of Christianity in Japan.vol.2 Protestant Missions”の、100年の時を経た翻訳である。Vol.1のカトリック・正教会と合わせて日本キリスト教史の必読文献である。1976年に合本で再版されたものの入手は困難で、私は今回の定価の3倍の古書を求めた。訳者の江尻弘氏は、所属する日本キリスト改革派東京恩寵教会の祈祷会で1985年以来本書を学んで来られたという。
 内容は、宣教師の視点で書かれた日本プロテスタント最初の50年(1859〜1909年、原著では1853〜1909年)である。当時、日本の管理下にあり日本語が使われていると思われていた琉球でのベッテルハイム伝道に始まり、20世紀大挙伝道の希望あふれる時代までを躍動感あふれる筆で描いている。そもそも起伏のある草創期、しかもケーリが宣教師として命をかけた同時代の記述は生き生きしており、読む者の胸を高鳴らせる。
同時代の英字新聞や宣教師報告などに基づく研究書でありながら、宣教の情熱を秘め「蛇のようにさとく、鳩のように素直に」生きた宣教師たちの証しとエピソード集でもあり、この種の専門書としては読み易い。
 アジア・太平洋戦争を知らないケーリの書物には、今日的視点からの批判も偏見もない。それが本書の素朴な魅力である。自説を控えるケーリであるが、インドYMCAのジョージ・S・エディの日本のプロテスタントに対する7つの意見を最後に紹介している。
 その一つ、「伝道方法が保守的であって、伝道活動の責任について十分な意識に欠けている。実際問題として、日本人は自治とか自給の問題に熱中するあまり、日本全体が福音化されるべきだという考えを重視していないかに見える」は、今も宿題である。

(評・山口陽一=東京基督神学校校長)


週刊 『クリスチャン新聞』 2010年5月2日号 =9面=掲載

『裁かれる者 沖田痴漢冤罪事件の10年』

沖田光男著(かもがわ出版、1,050円税込)

 本著は、元会社員の沖田光男さんが記した自身の痴漢冤罪事件の記録である。沖田さんは1999年9月2日、帰宅途中の電車内で携帯電話で話す女性を注意したところ、虚偽の痴漢を訴えられ「現行犯」逮捕された。そのまま21日間拘留、警察と検察官による取り調べを受けたものの、嫌疑不十分で釈放となった。02年4月、様々な葛藤を経て、不当な勾留請求をした国(検察官)、不当な逮捕をした東京都(警察官)、被害申告をした女性の三者を相手取り、損害賠償と慰謝料を求めて提訴した。しかし一、二審の判決は「痴漢をした」と認定する内容。請求はいずれも棄却された。07年9月11日、最高裁上告。翌年11月、最高裁は、審理不尽であるとして東京高裁に差し戻した。「判断が覆るか」との期待の中、09年11月26日、東京高裁は控訴を棄却。沖田さんの闘いは現在も続いている。
 この事件は、それまで沖田さんが漠然と信じていた「裁判が公平で真実を明らかにし正義が貫かれている」との認識に、深い疑問を抱かせるものだった。社会的に裁かれることとは無縁の生活を送っている多くの人が、おそらくこれと同じ認識をもっていることと思う。
 近年、「足利事件」(1990年発生)の再審無罪確定、「布川事件」(67年発生)の再審決定など、一旦有罪とされた事件の見直しが立て続けにあった。いずれも、容疑者が無実を訴え続けてきた事件だ。人間が人間を裁く。それは決して万能ではなく、冤罪は容易に起こりうる。本著には、一人の人間がどのように「容疑者」へ、そして「有罪」へ誘導されていくかが、リアルに描かれている。
 社会的地位、私財、時には家族。多くのものを犠牲にしても「やっていない」と訴え続ける人は少なくない。「この事実を、一人でも多くの方々に知ってもらいたい」と、沖田さんは願う。
 事件以来、沖田さんを支え続けた妻の有美さん(単立・イエスと歩む会会員)の手記も付記され、沖田さんの揺れ動く心情を妻の目から客観的な視点で見ることができて興味深い。
【藤野多恵】

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年4月25日号 =5面=掲載

『聖書66巻のキリスト証言 小林和夫著作集第1巻』

(いのちのことば社、4,200円税込)

 旧新約聖書66巻は生ける神のことばであり、説教を通して今日、ここで、メッセージとして受肉化する。東京聖書学院教会の毎週の礼拝で、説教を通して信仰者が養われ、日常の証しの生活の中に実を結んでいくプロセスを、小林和夫著作集全10巻の刊行を通し、著作集という形で広く日本全体に分かち合う機会が今、現実のものとなった。
 今回の著作集は、小林和夫先生の生涯の働きの集大成と言える。著作集は、聖書66巻のキリスト証言について最初の3巻があてられ、ヨシュア記、箴言講解が第4巻、そして、詩篇講解に4巻が当てられ、最後の2巻は新約聖書からの講解と論文集である。
 第1巻を見ると、31項目のうち、モーセ5書に17項目があてられている。モーセはイエスに先立つ1300年前の預言者であり、モーセ5書の中に天地創造の由来、出エジプト、まことの神への礼拝のあり方、40年の荒野の旅などについて記したが、イエスの「イ」の字も出てこない。それにもかかわらず、イエスはモーセ5書が「わたしについて書いた」(ヨハネ5・45〜47)と言われている。ここに、今回の著作集の立場が言い尽くされている。新約聖書、特にイエスのことばを手がかりに、旧約聖書をキリスト証言として見てゆくのである。
 第1巻と第2巻の筋道は、旧約聖書39巻の中に、イエス・キリストにおいて成就した旧約の預言と、それとかかわる救いのあらゆる神のお働きの歴史を見てゆくことと想定してよいのではないか。そのことは、イエス・キリストの十字架と復活によって旧約聖書の預言が成就したという、新約聖書の証言から今日まで続く聖霊の歴史の流れの中で、信仰者は今、生きていることを自覚し、慰められ、励まされ、生ける証人として遣わされることにつながってゆくと想定される。
 夏に発刊される予定の2巻以後が、そのような想定の通りになるのか、期待をもって待ち望みたい。

(評・鍋谷堯爾=神戸ルーテル神学校教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年4月18日号 =9面=掲載

『イエス・キリストに出会う 渡部 信説教集』

渡部 信著(YOBEL,Inc、1,890円税込)

 このたび、渡部信先生の説教集「イエス・キリストに出会う」が刊行されました。日本プロテスタント宣教150周年記念大会の働きを共にした者としてご出版を心からお慶び申し上げます。書評を依頼された者として、ここに本書の読後感を述べさせて頂きます。  著者はキリスト教界においてよく知られた日本聖書協会総主事です。著者は立場上1年に何十回となく海外渡航されます。その広がりは世界の隅々にまで及び、そこから得られた多様な人脈、豊かな経験、異種文化への寛容、日本教会への鋭い洞察、そしてそこから到達された「イエス・キリストに出会う」という信仰等々、それは著者の宝であると共に私たちの宝でもあると思います。  本書は第1部説教と第2部付録から成っています。説教は常盤台バプテスト教会の講壇から語られたもので21の説教が、付録はエッセイ2編と小論文2編が収められています。ここでは詳細に評することは出来ませんが、「あとがき」に記されてる説教に対する基本姿勢がすべての説教に貫かれているのはまことに見事の一語に尽きます。「説教は御言葉から語られること、自分の神学を持ち出さないこと、会衆は神を礼拝するために集まっているので、説教が生きた神の言葉として理解されるよう、信仰の決断が与えられるよう、日常の言葉で生活の周辺に起きている事柄を絡ませながら、具体的な出来事や証しを織り交ぜて話すことが大切である」 著者は優れた実務家、説教者、牧会者、学者です。ある方々は説教を通して大きな慰めと力を受け、ある方々は付録を通して学問的なチャレンジを受けるでしょう。しかし、「聖書を通読することは毎日欠かせない。聖書の御言葉はいつも生活の隅々で無意識の中で生きて働いている。そこから信仰の証しとも言える体験が起こっても不思議ではない」という言葉は、最も重みのある言葉でした。一人でも多くの方々の購読をお勧めいたします。

 (評・中島秀一=日本イエス・キリスト教団荻窪栄光教会主管牧師、日本福音同盟理事長)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年4月11日号 =5面=掲載

『正しすぎてはならない』

高橋秀典著(いのちのこと社、1,365円税込)

 「生まれて、生きて、老いて、死ぬ、この人生の意味はどこにあるのか」、「労苦に満ち、死をもって終わるこの一生になんの意味があるのか」、「死んでしまえばすべてが終わるのか」、「これまで私は一体何をしてきたのだろうか」、「ほんとうの幸せとは何なのか」このような問いは、ことばに出さないまでも誰のこころの底にも響いている問いでしょう。伝道者の書、あるいはコへレトの言葉は、このような問いを自らの生涯をかけて問い続けた一人の人物の言葉として読むとき、私たちの心が深く共鳴する経験をします。
 本書は、著者がこの書を十数年かけて読み返し、ヘブル語原典に当り、さまざまな訳を検討しながら、自らが全文を翻訳したものをベースに牧会する教会での8回の礼拝説教が基になっています。著者があとがきで述べているように、この本のユニークさは、人生の折り返し点を過ぎ、人生の秋も深まってきた学生時代の友人たちのため、まさに冒頭の問いの響きが増してきた人々のために書かれたことではないでしょうか。
 1部から8部の各章の小見出しをながめるだけでも著者の友人たちへの思いが伝わってきます。
“何もかもが疲れることばかり”、“人生の四苦八苦を受け止める”、“死を意識して、今を生きる”、“裸で来て、裸で去って行く”、“死の不安がもたらす狂気”、“品位を保つ生き方とは?”などなど。また、ジョン・レノン、サイモン&ガーファンクル、ローリング・ストーンズ、岸洋子、カレン・カーペンターなど懐かしい名前が出てきたり、バッハの名曲への言及や、般若心経との比較なども見られます。
 本書は、主に聖書に親しんだことのない人々を念頭に置いて書かれていますが、信仰を持つ者にとっても、自分は人生の意味、日常生活の意味をどこに見いだそうとしているかを改めて考える上で助けになることでしょう。また、著者にならって読者はこの本を囲んで友人たちと話し合うこともできるでしょう。

(評・太田和功一=クリスチャン・ライフ成長研究会主事)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年4月4日号 =9面=掲載

『まるかじり創世記』

佐藤 彰著(いのちのことば社、1.680円税込)

 創世記は聖書に関心を持つ人にとって、とても興味深い書ですが、理解しようとする時なかなか難解な書でもあります。そんな時、この本は大変役立ちます。
 タイトルの「まるかじり創世記」がまず目を引きます。目次を見ますと、そこには小見出しがぎっしりあります。何と116もありました。また、一区切りは800字前後あります。創世記50章をそれだけ小分けにして、内容を読みやすくしているのです。一気にまるかじりしたくなる点と、つまみ食い的に区切っても読めるようになっている点が魅力です。
 そして、なんと言っても目を引くのは小見出しのタイトル。それを見るだけで読んでみたくなり、さらにそこに何が書いてあるかの半分が理解でき、的確な内容把握が読み取れます。
 「大いなる犠牲の後に」これはアブラハムがその子イサクを犠牲として神にささげたところの「小見出し」です(創世記22章)。創世記の中の中心の部分です。しめくくりにこのようにありました。
 「大切なものを大きな犠牲を割いてささげてこそ、真実な礼拝となります。まことの愛の表明となるのです。もしアブラハムが、新約の時代にも生き、十字架上の神のひとり子キリストの死を見つめていたら、天の神の愛とご真実とが、どれほど深く胸痛むほどに分かったことでしょう。私たちも、真実な犠牲を伴う礼拝と信仰とをもって主に仕え、新しい祝福の世界を待ち望みましょう。十字架の大いなる犠牲の後に、新約の新しい祝福の世界が開かれたように、です」
 このように簡潔に要を得てまとめられているのです。私自身とても深く教えられました。
 この原稿は20年前、著者が32歳の頃に書かれたものです。その原稿が今日、日の目を見ることになったことがとても不思議で、じっくり熟成して味わい深く、霊の食卓に載せられたと実感しました。一人で読んで良し、グループで学んで良しのお勧めの本です。

(評・池田博=日本福音キリスト教会連合本郷台キリスト教会牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2010年3月28日号 =5面=掲載

『プロテスタント思想文化史』

A・E・マクグラス著(教文館、4.830円税込)

 本書は500年を超えるプロテスタント教会史の全景を物語風に描き出した作品である。その内容には、宗教改革者マルチン・ルター出現以前の時代の流れから、19世紀のプロテスタント世界宣教時代、20世紀のアズサ・ストリート・リバイバルや第三の波運動についてまでも含まれている。著者のマクグラス氏は、西欧を中心にしながら世界中に存在する幅広いプロテスタント教会の流れを視野に入れてまとめている。
 しかし、これは単なる歴史教科書ではない。実は原書の直訳は『キリスト教の危険な理念(思想)−プロテスタント革命』となっている。著者は、危険とも表現しなければならないようなものをプロテスタンティズムが内に秘めていることを指摘し、またそれが今日まで教会や世界を刷新・革新・改革し続けているという歴史的現実を記している。その思想の中核にあるのものが、「聖書」であり「聖書解釈」なのである。「すべてのキリスト者が聖書を解釈する権利をもつ」というこの基本原理への注視を読者に促しているのである。
 特に著者が本書で力を注いでいるのは、ペンテコスタリズムに関する言及である。これまでも彼は度々著書の中で、ペンテコスタリズムはキリスト教の将来の大きな鍵を握るであろうと述べてきた。その運動の起源を歴史的に探り、またその現象の世界的な広がりの現実を調べて、本書にまとめて発表している。著者は神学者として片方でこの運動が内包する神学的な問題点を指摘しつつ、もう片方では「ペンテコスタリズムはおそらくこの第二のプロテスタント・パラダイムの究極の例であろう」と位置づけ、その将来の可能性を評価し、期待している。ペンテコスタリズムを知るための入門書としても使える内容となっている、真にユニークな1冊だ。賛否両論を生じさせるかもしれないが、読者を決して飽きさせない書である。今後の教会の歩みを考察するための材料となることは間違いない。

(評・具志堅聖=日本福音同盟総主事、ウェスレアン・ホーリネス教団浅草橋教会協力牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年3月21日号 =9面=掲載

『福音主義自由教会の場 日本伝道150年講演集』

近藤勝彦著(教文館、1,995円税込)

 プロテスタント伝道150年。その意味と位置をどのようにとらえるかは、今日の日本伝道をどうとらえるか、という主題と連動しています。本書は、日本伝道の現在を、大きな危機の時代ととらえる視点で貫かれています。しかし、同時にこの危機の乗り越えが、単に人間的な可能性や掛け声で実現する類のものでないことも、著者の視野に深く堅固にとらえられています(第二講演)。
 著者は現在、東京神学大学の学長、そして日本のプロテスタント神学の強力な担い手として、所属する日本基督教団はもとより、福音主義プロテスタント教会全体から、その学識と発言に注目を集める組織神学者です。近藤先生の近年の著作にみられる大きな特色は、神学的な営みの過半を、「伝道の神学」の樹立に注いでおられることです。日本という典型的な伝道地に生きる神学者として、神学の視野を伝道に〈特化〉することに、強い責任と使命感をいだいておられるように見受けます。
 日本のキリスト教と神学にとって、何よりも重要なことは、教会が確固とした伝道基盤を備えることであり、そのために「福音主義の再生と深化」が計られねばならない。これが著者の痛切な問題意識です(130頁)。伝道との関連で何よりも問われるべきは、「福音主義」の内容をいかに堅実に把握できるかにあります。健全な福音主義なしに、健全な福音伝道はありえないからです。
その点で著者の大きな貢献は、「福音主義自由教会」という広い基盤の中で、神学と教会形成の課題を考え抜いてくださったことです。本書に限ってみても、メソディスト伝統を日本伝道の今日的な希望として語る一方(第四講演)、長老派宣教師ヘボンを「福音主義自由教会の伝道者」と位置づけるなど(第五講演)、諸教会を可能なかぎり広い連携と交流へ招こうとの意図が鮮明です。時宜に適った出版、いやそれ以上に日本の教会の歴史的要請に応える神学的発言に、感謝を述べたいと思います。

(評・小野静雄=日本キリスト改革派多治見教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年3月14日号 =5面=掲載

『牧師とその家族のメンタルケア』

窪寺俊之ほか共著(いのちのことば社、1,785円税込)

 私は、牧師やキリスト者のメンタルヘルスやカウンセリングに関する書籍や記事に、不満足を感じることが多かった。それらがピンポイントの経験則であったり、特定の立場による打ち上げ花火のような印象を持つことが多かったからだ。それでは、多くの関係者が互いに論じ合い、積み重ねていけない。そんな苛立ちであった。
 しかし、ここにきて、ようやく日本人の牧会者や神学者から、積み上げられるものが出始めてきた。昨年出版された賀来周一氏の『キリスト教カウンセリングの本質とその役割』(キリスト新聞社)等はその好例で、私は読みながら心踊らせた。
 そして本書も、そうした1冊である。内容は、3人の執筆者が、さながら独立したブックレットをそれぞれに著し、合本したような趣で、それぞれに個性が発揮されている。
 まず、「I 牧師のメンタルヘルス」では、牧師個人にとどまらず、かなり幅広く、総覧的にメンタルヘルスの諸要因がとりあげられ、解決の方向性が示される。
 次に、「II 牧師とその家族へのメンタルケアの理解、対策、ならびに援助システムについて」では、やはり牧会現場でのメンタルヘルスの問題が会話形式で、事例レベルでも扱われる。
 最後に、「III メンタルヘルス こころの病と向き合うということ」では、精神科医による疾病の解説が行われ、うつ病、不安障害(神経症)、人格障害、心身症、統合失調症、認知症、発達障害など、実に広範囲のものが扱われている。
 どの著者の章も、土台の部分を広く扱っている。今後、こうした論議や研鑽を深める際の土俵や見取り図になったり、前提知識を確認したりといった多様な、しかし礎となる役割を果たすことだろう。次なる期待は、3人の著者が、十分な頁を与えられ、それぞれのテーマを掘り下げて書いてくださることである。

(評・藤掛明=聖学院総合研究所カウンセリングセンター准教授)
週刊 『クリスチャン新聞』 2010年2月28日号 =9面=掲載

『聖書を読んだサムライたち』

守部喜雅著(いのちのことば社、1,260円税込)

 プロテスタント日本伝道150年を記念した昨年、『日本宣教の夜明け』を時宜にかなった好著として世に送り出した守部喜雅氏が、連続ホームランを打ったごとくの快挙をなした。参考文献だけでも30冊。これらを読みこなして絞り込むことだけでも大変な作業だと思うが、いとも軽やかに157頁に11人のサムライたちを登場させ、聖書そしてキリスト教との出合いと人物伝をまとめている。しかも「えーっ、知らなかった!」と思うエピソードを次から次へと惜しげもなく散りばめている。その幾つかを紹介しておこう。
 フルベッキが宣教師として150年前来日しなければ、日本の近代化は遅れ、キリスト教禁令も後退したままだったろう。また早稲田大学も誕生しなかった。
 今をときめく坂本龍馬を斬った男、今井信郎が西郷隆盛に助けられ、やがてクリスチャンにになり、今の静岡県の三島で村長になった。また龍馬の甥、坂本直寛は32歳の時に受洗。その後、自由民権運動に加わり活躍した。
 津田仙の娘、梅子は津田塾大学を創設するが、岩倉具視使節団に選ばれ、渡米したのがわずか7歳。そのホームステイ先を選んだのが森有礼で、あえてクリスチャンホームを用意した。
 密出国青年、新島襄は小刀を売却して漢和聖書を手に入れた。会津のジャンヌ・ダルクと評された山本八重と結婚し、同志社を創設。銀座に「十字屋」書店を開いた原胤昭は殉教者原主水の末裔で与力をしていた。
 さらに札幌バンドの礎を築いたW・S・クラークとその弟子である内村鑑三、新渡戸稲造。その名前はよく知っているものの、初めて知るような評伝、エピソードでいっぱいだ。
 さらに守部氏の母校、慶應義塾を創設した福沢諭吉。彼は軽井沢の教会を設立したA・C・ショーの伝道を助け、慰めた。福沢の子女も信仰者となった話等々、宝庫そのものだ。
 出会いを通して働きたもう神を証しする好著。

(評・山北宣久=日本基督教団聖ヶ丘教会牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2010年2月21日号 =5面=掲載

『創世記を味わうT』

鍋谷尭爾著(いのちのことば社、2,100円税込)

 本書は創世記1章1節〜5節の意味を様々な角度から探究するものです。それも、書名から想像される一般的な取り扱い方とは違った、ユニークな取り組みとなっています。本書を通して、みことばを味わうために、このような作業もあるということに目を開かれることと思います。
 そのすべてを紹介できませんが、ヘブル語そのものやヘブル語聖書の写本や様々な翻訳のこと、マソラ学者が加えている様々な注釈のことなどが取り上げられています。それも、その注釈がどのようなものかが、本文の研究の中で取り上げられています。初めてこのようなことに触れられる方は、巻末の用語解説を先にお読みになると理解しやすくなると思います。
 本書では「初め」や「時間」や神の御名など主題的なことも追究されています。時間についての追究の中では、古代の思想家の考え方から相対性理論や量子論の基本的なことにまで触れられています。ただ、科学が「なぜ」に答えられないこと(112頁)は、科学を成り立たせている方法論によっているのであって、量子論が出てきて分かったことではないと考えます。
 また、この創世記の最初の部分を聖書全体との関連で理解することへの目配りがなされているだけでなく、アウグスティヌス、ルター、カルヴァン、バルト、ボンヘッファー、内村鑑三など、信仰の先達たちがどのように理解してきたかも紹介されています。さらに、手塚治虫の『聖書物語』の構成の仕方のことも取り上げられています。
 気になったことをいくつか挙げます。第6部に批評学のことが取り上げられていますが、福音派からの評価も取り上げていただければと思いました。また、「七」という数の大切さから「ベレーシート」の子音字が七ではなく六であることの意味を汲み取ろうとすること(55頁)は行き過ぎではないでしょうか。「地球が惑星の周りを回っている」(85頁)は修正する必要があります。

(評・清水武夫=日本長老教会玉川キリスト教会牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2010年2月14日号 =9面=掲載

『あなたは愛されています』

大塚野百合著(教文館、1,890円税込)

 著者がイエール大学神学部留学中、チャペルでヘンリ・ナウエンの礼拝説教を聴かれた1982年から現在に至るまで、どんなに深く彼の著作を愛読され、傾倒されたかが伺えます。40冊を超えるナウエンの著作のほとんどを読破され、さらに彼に影響を与えたジャン・バニエはじめ彼が心打たれて著作に引用している多くの霊的指導者の原著をも読まれ、言及されています。
 本書ではナウエンの10冊の著作に集中し、彼を理解するのに相応しい数々の引用文が取り上げられ、洞察されています。著者自身が熟読と黙想を繰り返し、心に響かせて反芻し醸成された思いを、ナウエンの心の深部から染み出る深刻な孤独と苦悩、神と対峙しての霊的葛藤、人生の意味探求の苦闘などを読者と共有するべく、ご自分の言葉で、ご自分の体験と連動させつつ書き進めておられます。引用されているナウエンの文章はどれも著者の心を強く揺さぶり、目を開かせ、感涙させた言葉ばかりでした。
 ナウエンがハーバード大学神学部での教授職を去り、バニエが創設したフランスのラルシュに滞在後、86年にカナダ、トロント近郊のデイブレイクにあるラルシュで司祭としての働きに着任するまでの日記『明日への道―ラルシュへと向かう旅路の記録』では、大学での深刻な孤独と苦悩、神に従い仕えることへの自己の弱さの洞察が、驚くほど率直に語られていると著者は述べています。ラルシュでの経験の中で執筆された『アダム竏註_の愛する子』、『放蕩息子の帰郷』などでは、彼を苦しめたと言われている愛情依存症の故に神を激しく求めたナウエンの姿が麗しく痛ましく紹介されています。
 私自身、200ページ少々の本書を熟読するのに1か月以上を要しました。ナウエンの原著を開いて再読したり、黙想や悔い改めに中断することが多く、少しずつしか読み進められなかったからです。ナウエンに関心をお持ちの方々やこれから読みたいと思われる方々に必読の、すばらしい書だと思います。

(評・柏木道子=大阪キリスト教短期大学元学長、メノナイト・ブレザレン石橋キリスト教会会員)


週刊 『クリスチャン新聞』 2010年2月7日号 =5面=掲載

『求道者の旅』

ケネス・J・デール著(LITHON、2,100円税込)

 序の文章にこういうくだりがあります。「…これは、ルーテル教会という伝統的なプロテスタント正統主義から始まり、正統とか非正統とかでなく、また保守的でも進歩的でもない、どんなレッテルも貼れない、深い信仰の体験へと続く巡礼の旅です…」。
 著者は、1951年にルーテル教会の宣教師として来日。40年以上にわたり伝道の働きに従事しました。60年代半ば、傾聴を中心にした新しい牧会カウンセリングに使命を覚え、82年、ルーテル学院大学に「人間成長とカウンセリングセンター」を創設し、牧会カウンセリングの先駆的働きもしてきました。
 本書が生まれる背景には、このような著者の履歴が大きく反映されています。日本の教会の伝道不振の原因がどこにあるかを探り続けた著者は、その一つとして、教会が使っている用語の難しさや、現代では受け入れられにくい教会独特の伝統があることを指摘しています。さらに、それを人間の心の深みとの関係で解決しようと試みたのが本書です。
 たとえば、こんな問いかけの文章があります。「…“救われる”とか“義とされる”とか“贖われる”とはどういう意味でしょうか? これらの神学的な言葉は説教者の口からとめどもなく出てきますが、外部の人にとってどういう意味をもつのでしょうか?
 これらの言葉の深い宗教的な意味は見失われ、ただの、信心深さを表す決まり文句となってしまったために、多くの人がこれらの言葉を無視するようになってしまいました」
 “信心深さを表す決まり文句”とは、評者にとっても痛いほどに響いた言葉です。“福音派”といったレッテルや伝統にあぐらをかくのでなく、今、自らに内在される生ける神を意識しながら、今日の行動や生活全般の目的を正しく設定しているか…。
 本書には読者をも「求道者の旅」へといざなう魅力があります。

(評・守部喜雅=元百万人の福音編集長)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年1月31日号 =9面=掲載

『キリスト教倫理学』

近藤勝彦著(教文館、4,830円税込)

 本書は組織神学の中でキリスト教倫理を構想したもので、基礎論と各論の2部構成。著者の神学的立場は「歴史的啓示に基づく教義学によって支えられながら、教義学とは相対的に区別されて、歴史における人間の行為を主題とするキリスト教倫理学が遂行される。それは、歴史的、ならびに神学的な倫理学、歴史神学的な倫理学である」(45頁)という点にある。
 評者は、市民社会の確立と成熟が今後の大きな課題だとの認識に同意するが、問題は日本でのその形成の方向性だろう。特徴はトレルチの『社会教説』やバルトに沿い、神学的には圧倒的にドイツ語圏のものを基本の枠組みとして取りつつ、社会倫理やデモクラシー論はアングロ・アメリカ的な「自由教会的プロテスタンテイズム」の方向で展開していること。国家論については、モルトマンの「政治の包括性」やパネンベルクの「国家の優位」には、いまだに市民社会論を止揚するヘーゲル的国家観があるとし、一方、オランダのカイパーの領域主権論を評価する(158頁)。だが、カイパーの別の神学的概念である一般恩恵論や反定立についての記述を見ると、首尾一貫性した論評になっていないと思われ、それが実際、アソシエーションとインスティテューションの二者択一に現れている(79頁)。ヨーロッパ的なインスティテューションは真の「自由」の概念を欠くとして、アメリカ的なアソシエーションと「結社の自由」を採用する。ここにピューリタニズムへの著者の評価が入る。しかし評者は、カイパーの「自由」の概念の背後には、そういった二者択一とは異なるコンソシエーションという政治哲学があることを指摘したい。
 著者の労多い著作に敬意を表すると共に、神学は「『特定集団内に固有な言語遊戯』に陥ることを回避して、現代の倫理意識や倫理一般と対論し、それを批判し、修正し、人類の実生活における倫理的方向づけに寄与しようと試みる」(47頁)と主張するならば今後、ぜひこれを実践し神学界の外で発言して欲しい。

(評・荒瀬牧彦=カンバーランド長老キリスト教会めぐみ教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年1月24日号 =9面=掲載

『人物でたどる礼拝の歴史』

江藤直純、宮越俊充編(日本キリスト教団出版局、3,150円税込)

 本書は、季刊誌『礼拝と音楽』に24回にわたって連載され好評を博したシリーズに、書き下ろし2編(「中世の修道院改革」と「オックスフォード運動」)を加えたものである。
 使徒教父から20世紀終わりの賛美歌作家まで、約1900年に及ぶ礼拝史に登場する人物を、計18人に及ぶ各専門分野からの執筆者が、本格的に、かつわかりやすく解説してくれる。
 言うまでもなく、礼拝は神のものだ。神が招集者であり、導き手であり、すべての中心である。そして第二義的に、それは神の民として召された信仰共同体の業である。礼拝者は観客ではなく出演者として参加するのだ。従って礼拝は共同的であり、一部の指導者が個人的な作業として作ったり変えたりするものではない。
 しかし他方、歴史の分岐点となるような重要な働きをした個人、あるいは新しい動きを作った集団における象徴的人物が存在する、というのも確かである。代表的人物を取り上げ、その人たちを手がかりとしながら、またその人たちの闘いを通して、各時代の特徴を描き出し、それらをつなげていくことによって礼拝史全体を見渡す、というのは意義深い試みである。本書はその試みに成功している。
 何よりまず、読みやすくて面白いのだ。近年、日本語で読める礼拝史の書物が充実し、通史も各時代の研究書も手にすることができるが、分厚い本から入るのはなかなか難しい。その点、本書は礼拝史の重要局面をしぼりこみ、各局面について原則として2人の人物に絞り、1章で完結する読み物にまとめているので、1章ずつ楽しんで読むことができる。
 関心をひかれる章から読み始めても支障がない。自分が属している礼拝伝統のルーツを知ると同時に、馴染みのない他の礼拝の形についても理解しよう。礼拝のやり方が互いに大きく異なっているが、それでもなお私たちは一つの主の体なのだから。

(評・荒瀬牧彦=カンバーランド長老キリスト教会めぐみ教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2010年1月3・10日号 =12面=掲載

『キリスト教学校と建学の精神』

深谷松男著(日本キリスト教団出版局、1,785円税込)

  本書は、「キリスト教学校と建学の精神」というごく一般的なテーマを、法律の専門家としての鋭い論理的視点から分析した名著である。著者の宮城学院院長時代及びキリスト教学校教育同盟理事時代の講演と著作に加筆し編集したものであるが、序章から終章までの展開がテーマに沿って実に明解である。キリスト教主義学校に身を置く人々の必読書であると言ってよい。
 序章においては第二次世界大戦下、国策に翻弄されたキリスト教学校の実態が反省をもって分析され、キリスト教学校の今日的使命が明確に示されている。すなわち、「品格ある国家とは、一人ひとりの良心の自由を尊重し、小さな弱い者をこそ大事にする国家」でなければならず、軍国主義国家を再現させてはならないことが強調されている。それを受けて終章においては、「教育基本法と建学の精神」に言及し、「伝統」の継承を歴史的に尊重し、国と郷土を愛する態度を育むことは美しい理念であるが、かつての神道的国家観を忍びこませる危険性が含まれていることを鋭く指摘し警告を発している。時代の流れに翻弄されない自己を確立するために、「改めて建学の精神を考える」必要を著者は本論において強調するのである。
 以上の様な論点に立って、この書の3分の1のページを第1章「改めて建学の精神を考える」に割き、「キリスト教に基づく人格教育」の必要性を論述した。まず神への畏敬の精神が養われ、神との縦軸が回復されてはじめて隣人愛の横軸が形成されることが明言されている。著者はこの建学の精神に基づく教育を提供することこそが、私学の社会的責務であると説く。現代日本のキリスト教に基づく教育の原点がここにあると思う。
 第2章の「歴史に見る建学の精神」は、著者の宮城学院院長時代の実践的記録と歴史的分析であり、キリスト教学校関係者一人ひとりへの貴重なメッセージである。

(評・湊晶子=東京女子大学学長)