週刊 『クリスチャン新聞』 2011年12月4日号 =8面=掲載

『日本の植民地支配と「熱河宣教」』

渡辺裕子ほか共著(いのちのことば社、1,500円税込)

 証言は当事者の一方のみから聞いてはいけない。3人の著者は被害者の視点で検証する。
 アジア太平洋戦争下の満州で行われた熱河宣教は、『熱河宣教の記録』(1965年)、『荒野を行く―熱河・蒙古宣教史』(1967年)等により、戦争協力ではない純粋な伝道として受け止められている。だが、状況を考えれば純粋に伝道できるはずのない時代である。
 かつて小川武満氏の講演「中国伝道の課題と展望―熱河宣教の視点から」の編集をして漠然と知ってはいた。それを本書は論証し、私たちの歴史認識を厳しく問う。
 渡辺祐子氏は、満州キリスト教史におけるスコットランドおよびアイルランド長老教会等の影響力、日本傀儡の「満州国」における孔子廟参拝から神社参拝への移行から説き起こし、満州伝道会と軍部および国策との関係を実証する。「荒野を行く」イメージの熱河伝道であるが、プリマス・ブレザレンを中心とする欧米ミッションの先行を明らかにする。
 張宏波氏は、日本軍が三光作戦や無人区政策を展開して約5万5千人の死者を出した侵略の最前線が熱河であったとし、伝道者たちの侵略を欠落させた語り方に疑問を呈す。国民教化機関である協和会と伝道者たちは依存関係にあり、最初の回心者王玉新や戦後銃殺された医師の劉芸田なども対日協力者であった。「地元の入信者はほとんど政府関係者、討伐隊員等の対日協力者で普通の民間人はきわめて少数だった」(地元民の証言)。
 荒井英子氏は福井二郎・敏子、沢崎堅造・良子、砂山貞夫・節子について検討し、福井の聖書と祈りの宣教報告における被害者の不在、沢崎の宣教論におけるキリスト教と国体思想の合体を解明する。2010年11月に召天された荒井氏の最後の論文となった本校は次のように締め括られる。「自らが行った伝道が歴史的にどのような文脈にあり、どう機能していたのか。そのことを半世紀経てもなお神の前に相対化できない信仰とは何か」 

(評・山口陽一= 東京基督神学校校長)
週刊 『クリスチャン新聞』 2011年11月6日号 =8面=掲載

『フォーサイス神学概論 十字架の神学』

大宮 溥編(教文館、A5判、3,990円税込)

 振り返れば、日本の教会の多くの先人たちは、福音の伝播と自立的教会の形成とを目指して文字通り格闘し続けてきた。そのミッションを遂行するためには、堅実な神学の学習とその土着的形成が不可欠という自覚に立っていたと言える。そうした状況の中で格別注目された神学者の一人が、英国の代表的神学者の一人ピーター・フォーサイスである。『福音的基督教』(1927)で歴史的に広く知られるかの高倉徳太郎は、まさに彼に注目した先達≠セ(拙著『現代福音主義神学』2005年参照)。このたびフォーサイスの神学に関する貴重な一著が出版された。
 この書の構成は、13の論文と娘のJ・フォーサイス・アンドリュースによる父の回想録、そして本書の編・訳者、大宮溥氏の博士論文(東京神学大学での第1号 1966)による。大宮氏は1965年に「人と思想シリーズ」の1冊として「フォーサイス」を著し、牧会・伝道の現場に立ち続けた(キリスト教教育事業の面でも多々活躍)。今日までフォーサイス神学の貴重な研究家の一人と言える。
 内容は、フォーサイス神学の決定的な特色は「一切が十字架の相の下に」だとして、ハント、ガントン、マッキノン、ホールの四論文は、同神学におけるイエスの十字架死と贖罪論を解明する。続いてフォーサイスの教会論(サイクス)、祈祷論(ウェイクフィールド)、福音主義的霊性論(ゴードン。ウェスレーからジョン・ストットに至る──評者はつい最近、ストット師の召天=90歳=の報を受けた)、牧師論(ビンフィールド)が組まれる。また神学史上話題となってきた「フォーサイスはバルト以前のバルト主義者であったか」(トムソン)と、ヘーゲルとの関係論(ラッセル)、芸術論(ベッグビー)、政治的神学との関連に関する論文(クレメンツ)などが含まれる。近年における貴重な一書と言えよう 。

(評・宇田進=東京基督教大学名誉教授)
週刊 『クリスチャン新聞』 2011年9月25日号 =5面=掲載

『主が聖であられるように』

ウィリアム・M・グレイトハウス著(いのちのことば社、2,520円税込)

 ジョージ・ターナーの『ウェスレー神学の中心問題』(1959年、福音文書刊行会)以来の本格的な「聖化論」(あるいは、見方によってはそれを超える、といっても良い)の大作が発刊されました。
 著者ウィリアム・グレイトハウス博士(1926-2011)は牧会者として、教授(ナザレン神学大学院学長等)として、監理者(米国ナザレン教団総監督等)として、豊かに用いられた器であり、この世界の巨人と言ってよいでしょう。
 本書はその長さ、広さ、深さにおいて特色を持っている、と考えられます。
 <その長さ>は文献の豊富さです。初代教会から現代に至るまでの聖化に関する文献から、随所に引用されています(特に、第10章「山上の説教」に見られる著者の洞察力は顕著です)。
 <その広さ>は創世記から黙示録まで一貫してホーリネスが中心問題であると明示しています(そしてウェスレアン・ホーリネスこそ、救いとホーリネスに関する宗教改革者とカトリック教会の理解の中道であると指摘することに同意しています)。
 また著者の包括的態度は、反対者の立場を公正に解説、吟味し(その欠けて いる点を指摘し)、あるウェスレー主義者の行き過ぎをも指摘するのにやぶさかでありません。
 <その深さ>は釈義の正確さ、原語の解明に見られます。補遺「聖化を現すギリシャ語用語の解説」は平易であるとともに、啓発的であります。
 本書は論文としても、教科書としても、説教・注解としても、大いに用いられると言ってもよいでしょう。
 翻訳者・福江等博士は著者の愛弟子であり、最大の理解者の1人です。牧会歴、教授歴に加えて、フィリピンのアジア・パシフィック神学大学院の学長として、英語を駆使しながら奉仕をされた器であり、訳者として最もふさわしい方だと信じます。すべての聖きを求める人々に、心から本書を推薦する次第です。

 (評・竿代忠一=インマヌエル磐田教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年9月18日号 =7面=掲載

『医療の心、福祉の心』

工藤信夫著(いのちのことば社、1,470円税込)

 書名で勘違いしないでほしい。書物の名前が『医療の心、福祉の心』、著者は著名な精神科医で、ここ15年は大学での福祉専門職養成に深く関わってこられた方とくれば、この本は医療や福祉の分野で働いている人や働こうとしている人に、その心構えを伝授するのが目的だと思われよう。
 しかし、評者はあえて言いたい、専門や職業のいかんにかかわらず、人と人との関わりに人間にとっての生き方の鍵を見いだそうとしているすべての人、援助したり援助されたりという関係の中で、他者と共に豊かないのちを輝かせたいと真摯に願っているすべての人に、この書を勧めたい、と。
 「この点、医療・教育・福祉という世界は人間関係学であり、先ず人の話に耳を傾けること、そしてよく聞けることからスタートするに違いありません」と捉えている著者は、医療者(医師のみならずナースもナースエイドも)と患者、ソーシャルワーカーと福祉サービス利用者及びその家族たちが紡ぎ出すさまざまな具体的事例や現場レポートという生の声を手掛かりに、新しい、ずっと人間的に豊かないのちの関わり合いを描き出す。一昔前だったら「…スル側と…シテモラウ(サレル)側」の構造の中にあって、とてもそうはいかなかっただろうに。それらから新しい関係の質を学ぼうとする謙虚な姿勢は読者の共感を呼ぶ。
 もはやキュアのできない状態になってからのケアの必要性と可能性、病もまた「新しい生の発見、再生のチャンス」、「もてなしの心」の大切さ、自己の無力さの自覚から共感・共苦へ、日常性の破綻における心の支え方…。互恵的・生涯的関わり、誇りの回復と支援、場の豊かさ…。
 著者の真骨頂は、第U部に収められた13篇の病院勤務時の朝の礼拝での話。実体験とナウエンなどの霊的な言葉と著者が聖書から与えられた洞察とが、読む者の霊を養い、信仰的生の深みへと導く。工藤信夫という人生の同伴者と読者は出会う。

(評・江藤直純=ルーテル学院大学キリスト教学科教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年9月4日号 =7面=掲載

『聞いてください』

坂田静子著(オフィスエム社、1,365円税込)

 家族を愛し、教会や地域の人たちとの暮らしを愛し、明日を担う若い世代を愛する一人の主婦が、原子力発電所と核燃料再処理施設問題が起き上がり、見えない“放射能”の危険性に恐れを抱いた。科学の進展が、発展と夢をもたらすだけのものとの錯覚を植え付けられていた1970年代。著者は、日々の新聞記事やニュースから読み取れる原発と放射能の危険性をガリ版刷り「聞いてください」にして、まだ関心の薄かった町の人たちに配り続けた。ジャーナリズムの語源、“ジャーナル”とは日誌とか日記のこと。まさに“生活を愛する”視点から原発と放射能問題の本質を啓発し続けた“反原発”ジャーナルの一書だ。
 原発問題と関わるきっかけは、英国人と結婚した長女の家族に突然降りかかってきたフランスでの放射能汚染問題だった。まだ、日本では報じられていない。居たたまれない気持ちで周りを見れば、徳之島の核燃料再処理工場や新潟県柏崎の原発反対運動が起きていることに気づかされる。
 関心の深まりは、放射能=核の問題性と危険を伝える。1章「子どもたちのために」、2章「“いのち”と“暮らし”のこと」、3章「“スリーマイル島”の恐怖を」、4章「“チェリノブイリ”の悲しみと祈りを」、5章「再び、子どもたちのために」。どの文章にも、いのちを守り慈しむ思いが染み出ている。時には聖書の言葉に、厳しくも励まされていく。
 今年、この復刻版が緊急出版されたことで、いまも地の塩として、著者の視点も言葉もそして祈りも活かされていることを実感させられた。しっかり“聞かせていただきます”。そして、“脱”原発への市井の声を何かに書きつづりたい想いを受け継ぎたい。主婦で薬屋のおばさんだった著者・坂田静子のように、飾らない言葉で。
 「われわれの先祖は罪を犯して、すでに世になく、われわれはその不義の責めを負っている」(哀歌5・7、口語訳) 

(評・遠山清一=クリスチャン新聞情報企画課、編集部企画課デスク)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年8月28日号 =6面=掲載

『あなたが燃え尽きてしまう前に』

ウェイン・コデイロ著(ニューホープ東京リソース、2,100円税込)

 この本は、急成長した教会の主任牧師であり、幅広く用いられていた著者が、燃え尽きてうつ状態に陥った自分の経験をふり返りながら、どのような状態に陥ったか、その原因はなんであったのか、どのような道のりをたどって回復していったかを正直に記録したものです。原題は“Leading on Empty”(空っぽにさせるもの)で、どのような生き方や働き方が燃え尽き状態を引き起こすか、自分だけでなくいろいろな人の例をあげて述べています。
 さらに、彼の3年間の回復の道のりで多くの人から与えられた支えや助けについて、また、聖書が示すあるべき生き方、働き方についても述べています。
 この本にはいくつかの読み方が可能です。一つは、燃え尽き状態にならないための予防という見地から。もう一つは、燃え尽き状態の兆候や発症を見極める診断のために。あるいは、燃え尽き状態からの回復のためにはどうしたらよいかという治療という見地から。さらに別の読み方が可能です。それは、著者の意図にそったものであるかどうかは分かりませんが、“燃え尽きが与えてくれる宝物”を探す読み方です。
 その宝物とは、一言で言えば、燃え尽きなければ分からなかった自分と自分の生き方への深い気づきです。さらにおまけは、自分は変わりたい、自分の生き方を変えたいという切なる願いです。“苦しみにあって、私たちは変わります…どのような変化にするかは、その人が選択しなくてはならないのです。私にとっては、その選択はあらゆるものをひっくり返すような大きな変化をもたらすものとなりました。”(12頁)
 燃え尽き状態に至らせる生きかたの根底にある、それぞれの内に働く衝動の問題や自分とは何かというアイデンティティーの問題について、また、働き方の背後にある純粋ではない混ざりものの動機の問題についての考察が加わればより助けになったと思います。 

(評・太田和功一=クリスチャンライフ成長研究会主事)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年8月21日号 =7面=掲載

『パウロの選択 〜受け継がれる自活伝道の精神〜』

矢島徹郎著(いのちのことば社 1,890円税込)

 日本では多くの教会が礼拝出席20人に満たず、牧師や牧師夫人が教会の働き以外に仕事をしなければ家計も教会も維持できないという例は少なくない。教派にもよるが、伝道者・牧師として献身した者が伝道以外の副業≠ノ携わることには、どこか後ろめたい思いがつきまとい、実際、教会員や教団に内緒でこっそりアルバイトをする牧師もいる。本書はそんな実情に根底から再考を促し、自活しながらの伝道・牧会に積極的な意味を見いだす。
 パウロが天幕作りをしていたことは聖書から知られているが、多くのクリスチャンはそれを初期にやむを得えずそうした経過的な方便のように捉え、次第に多くの教会や信徒たちの支援を受けて伝道に専念した、というイメージで見ている。しかし著者は、その常識≠ノ根本的な疑問を提起する。
 著者自身が、教会の外で働きながら教会を形成してきた。だがその仕事を、伝道・牧会に専念することを妨げる副業≠ニは考えていない。自給自活をパウロの姿勢に倣う伝道者のあり方として、誇りと自信を持って実践する。パウロの生い立ちから回心と召しの経緯、その伝道の働きや理念、宣教観などを聖書神学的に検討した前半部分からは、著者が提唱してきた自給・自活伝道の聖書的根拠がよく整理され理解することができる。
 「私は自分の誇りをだれかに奪われるよりは、死んだほうがましだからです」とIコリント9・15に書いたパウロは、自ら意識して生涯天幕伝道者であり続けることを選び取った。それが著者の確信であり、パウロがなぜその道を選んだのかが明かされる。後半では、キリスト教会と宣教の歴史をたどり、教父の時代にも中世カトリックにもプロテスタントにも、パウロが提起した天幕伝道の系譜は脈々と継がれてきたことを論証しており興味深い。
 聖書と歴史を踏まえて著者はさらに、日本の教会の現状とこれからについて論じ、パラダイムの転換を迫る。その内容には異論や反発も予想され、刺激的だ。受け入れるにせよ拒むにせよ、今後この問題を考える上で、本書を検討することは避けて通れない。

 (評・根田祥一=本紙編集長)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年8月14日号 =9面=掲載

『ルター教会暦説教集』

マルティン・ルター著(教文館、3,465円税込)

 マルティン・ルターの説教集『ルター教会暦説教集』が出版された。ルター自身「わが最高の書」と呼び、欧米ではいくつもの版で長く読み継がれ、神学を語るときに欠かせない用語の出典ともなっている定番説教集の日本語訳を、私たちはようやく手にすることができた。
 思えば世界を変えた宗教改革は説教を通して広がった。ルターは説教改革者だ。信仰義認の教えを撤回せず「我ここに立つ」と言ったとされるウォルムスの国会でルターは結局帝国追放の刑を宣告される。帰途に領主の配慮でワルトブルクの山城にかくまわれたとき、彼は民衆のために新約聖書をドイツ語に訳した。ローマ人への手紙10章17節「信仰は聞くことから」という個所を、ルターは「信仰は説教から」と訳した。神は福音の説教を用いて聞き手のうちに信仰を創造されるという確信を、彼は翻訳に託したのである。
 だが同じときワルトブルク城で、ルターが本書を執筆したことはあまり知られていない。3千を超えるルターの説教の中でこの説教集は特別の輝きを放つ。明日の命の保証もないとき、聖書の福音が実際にドイツ語で説教されることで人々に届くようにと、ルターは執筆に全精力を傾けた。
 ルターはこの説教集に、福音書からキリストをどのように説教するか、という心得、すなわち説教の神髄を述べた小論を付記した。これが本書にも訳出されているのがうれしい。ワルトブルクでは24の説教が書かれたが、このたびの翻訳にあたり、ゴーガルテン編で普及したハンディな新書版ルター説教集の内容に準じて、福音書や書簡から10の説教がセレクトされている。
 キリストを説教する神の言葉の説教にふれると、私たちは聖書の一言一句の解き明かしに巻き込まれていく。いつしか神の贈りものであるキリストの恵みにあずかった我が身を喜び、躍動的に具体的に隣人のために生きるキリストにならう自由な命が内に宿ったことに驚くことになる。説教者、説教の聞き手の両方に手にとってほしい。

 (評・正木牧人=神戸ルーテル神学校校長)
週刊 『クリスチャン新聞』 2011年8月7日号 =5面=掲載

『使徒行伝講解説教』

渡辺信夫著(教文館、2,625円税込)

 全4巻からなる使徒行伝講解説教の第1巻(使徒行伝105章)が、このたび出版されました。何よりも、まずそのご労に感謝をいたしております。
 本書は、「カルバンの講解説教のスタイルを踏襲しつつ、現代に向かって新たに語る神の言葉」との紹介を見ます。「使徒行伝」は「行伝」でありますから、教理的記述が少なく、むしろ教会設立以降、使徒たちを通して聖霊がいかに働き、地の果てまで福音宣教が進展していく状況説明が大半を占めています。それゆえ、礼拝の場で、しかも連続して「使徒行伝」を説教するとなれば、多くの説教者が困難を覚えてきたと思われるのです。
 ところでこの講解シリーズは、約5年半にもわたる連続講解であります。説教者の力量が求められることはもちろんのことですが、聞く側にも、それを受け止めるだけの信仰的な資質が求められることになります。いわば、そうした双方の兼ね合いがなければ、礼拝の場は可能とはなりません。それを可能ならしめた連続した講解説教であることに、あらためて敬意を覚えました。
 著者は主観的・情緒的・人生論に傾きがちな日本の講壇にしばしば警鐘を鳴らしてこられました。そのことはまた、所与の「テクスト」に沿った、ソリドな講解説教への強い要求でもありました。円熟期に出版された本書には、各所にその反映を見ることになります。
 後記「エッセイ」を見ますと、講解の冗長さを懸念されたり、また年齢からくる劣化を心配しておられるようですが、樹海のごとき「使徒行伝」に踏み込み、細心にして、注意深く、しかも先々の見通しをつけながら、迷路から脱出する筋道をつけてくださったことは、次世代の牧師たちにとって、以前にもまして、確信をもって講壇に立ちうる足場を与えられたことは、まことに心強い限りであります。

(評・結城晋次=JECA友好・防府聖書教会牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2011年7月31日号 =6面=掲載

『卒業したあなたへ 入学したあなたへ』

湊 晶子著(いのちのことば社、700円税込)

 湊晶子東京女子大学前学長による卒業生と入学生への式辞をまとめられた書である。湊氏は古代キリスト教思想史の研究者であるが、同時に日本社会において女性の正当な自立と尊厳のため論陣を張ってこられた。また東京基督教大学での教鞭を経て、2002年に東京女子大学学長として就任され、初の母校出身の学長として多くの方々の祝福のもとに着任された。しかし時代状況は、教育基本法改訂や父性の復権などと称する風、産業界の要請や国公立大学独立法人の動きなどのあおりを受けた私大の現実対応化を迫る逆風が吹き荒れていた。そうした中、湊氏は学内外で信念を貫き通して戦って来られた。本書は、その中にあって明日を担う新入生と卒業生・修了生の女性たちに、式典において万感の思いで語られた氏の静かで苛烈なメッセージ集である。
 氏は、東京女子大学はキリスト教精神に基づくリベラル・アーツの大学であると断言する。氏によれば、リベラル・アーツ教育とは、自分を超える絶対者・真理との垂直的関係から樹立され、心をリベラライズ(自由に)して自己を確立する人格育成の教育である。教育がますます専門分化し、技術的知識対応のみを目指す方向にはっきり否と言い、教養と専門のバランスの取れた教育を主張される。尊敬する新渡戸稲造初代学長の言葉を引用して、知識が消えた後にも残るものが教養であり、知恵を与え人生において生きる力となると教えられる。そして当時も今も日本社会で大なり小なり圧迫を受ける女性たちに向けて、温かく力強い励ましの言葉の数々を言われる。人生において「多くの苦難を受けて踏みつけられるぶどうは、おいしいぶどう酒となる」など。
 東日本大震災に心を痛められた著者は、本書を自費出版し被災者に捧げられた。式辞集であるため多少の重複表現はやむをえないが、素晴らしい珠玉の本である。全女性、教会関係者、教育者、学校関係者、そして苦難を抱えておられるすべての方々に、ご一読を心から薦める。

(評・阿久戸光晴=聖学院大学学長)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年7月24日号 =6面=掲載

『心を注ぎだして』

遠藤嘉信著(いのちのことば社、1,260円税込)

 本書は遠藤嘉信先生が生前、「祈り」をテーマにした礼拝説教をまとめたもの。旧約聖書のハンナ、ソロモン、ダニエル、ダビデ、ネヘミヤ、アサフの6人の祈りを解き明かします。各人の時代背景をもとに、どのような状況下で主と向き合い「心を注ぎ出して」祈るに至ったのか、どう主に取り扱われていくのか、その祈りに主がどう関わり導かれていったのかを丁寧に語っていきます。
 読み進めるうち、不思議な感覚に陥ります。遠藤先生らしい分かりやすい語りを通し、情景がリアルに浮かび上がります。そのうち少しずつ各人の祈りに心から共鳴し、一人ひとりがとても親しい知人であるかのように身近な存在となり、あたかも祈りの友のような思いになっていきます。そして徐々に、各人の祈りを通して、自分自身が主との深い交わりに導かれ、いつしか彼らの祈りが自分の祈りとして心の中で息づいてくるのです。
 遠藤先生は本文の中でこのように語ります。「驚くべきことですが、今から三千年も前に生きた神の聖徒の祈りのことばに目を留めるとき、そこにその信仰者の誠実さ、聖さ、率直さ、それでいて私たちと少しも変わらない人間性、それゆえに抱える共通の問題意識や悩み、苦悩、そうしたことを時代の隔たりを少しも感じることなく観察することができます。そしてそれと同時に、その祈りを今も同じように聞いてくださる父なる神の臨在のことを思わされるのです。三千年も前におられた神は、今も生きて、私たちに同じように働かれます」
 確かに読み終わった時、主の臨在の中で、主と向き合い主と語り合ったような思いになりました。「そうだ! 主はいつも一緒にいてくださり、今、私の祈りを聞いていてくださる!」という確信と共に、フッと肩の荷が下りるような思いになりました。
 本書は「祈りとは何か」という解説本というよりは、「祈り」のただ中へ、主との深い交わりへと導かれる本です。

 (評・波多康=ゴスペルチャーチ東京牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2011年7月17日号 =9面=掲載

『神の言はつながれてはいないII』

ホーリネス弾圧記念同志会委員会著(ヨベル、1,260円税込)

 20回を数えるホーリネス弾圧記念聖会の記録集。体験証言中心の第1集に対し、今回は5つの講演、2つの説教が収められた。戦責告白と和解・平和について関田寛雄氏(日本基督教団神奈川教区)、古代キリスト教と迫害について土井健司氏(関西学院大学神学部)、カトリックの殉教者について平林冬樹氏(カトリック司教協議会)と、講演は歴史的・教派的にも多彩。ホーリネスからは千代崎秀雄氏(日本ホーリネス教団)の「弾圧の歴史的文脈」(95年)、亀谷荘司氏(日本福音教会連合)の「日本の近代化とホーリネス弾圧」(02年)が遺言の趣を放つ。特に長年、日本キリスト教連合会や日本宗教連盟の理事長を務め宗教法人法「改正」でも行政と渡り合ってきた亀谷氏の言葉は、預言者の警告を思わせる。
 「天皇とキリスト教が信じている神さまと相容れないものであるにも関わらず、教会は、クリスチャンは、敬虔な信仰生活をすることと、忠良なる大日本帝国臣民であることに何の疑問も持たないで生活していた」と亀谷氏は指摘する。それをおかしいと言ってくれたのはクリスチャンではなく、弾圧した検事だった、と。クリスチャンにとって弾圧が「思いがけない時に来た災い」だったのは、教会が真剣に自分の信仰の対象であるイエス・キリスト以外のものを峻別できなかったからだという。キリストの再臨を信じることは、必然的に天皇の統治権が廃止されることにつながる。その重大性に検事は気づいた。だが教会は気づかずに、「敬虔なクリスチャン、忠良な臣民」を自認し続けていた。
 「日本の教会もクリスチャンも、その信仰の問題をギリギリまで突っ込んで考えて対応するということはしなかった。…戦う用意をしていなかった」と亀谷氏は嘆く。その嘆きは、日の丸・君が代の押し付けや有事法制化など「生臭い匂いがどんどんしているのに、知ろうとしない」現在の教会にも向かう。「胸を張ってイエスさまを信じて行こうと思ったら、今も信教の自由を一生懸命になって守らなければいけないのです。信教の自由を守って行かなければ、…いつか来た道がまた来たらお前は負けるぞ、と戒めています」

 (評・根田祥一=本紙編集長)
週刊 『クリスチャン新聞』 2011年7月3日号 =10面=掲載

『もう、ひとりにさせない』

奥田知志著(いのちのことば社、1,365円税込

 本書はホームレス支援の現場からの報告であり、出会った人々との対話から生まれた実践の記録である。著者はNHKのテレビ番組プロフェッショナルにも出演し、全国の注目を浴びている東八幡キリスト教会の奥田知志牧師である。約束されていたドイツ留学を諦め、北九州ホームレス支援機構を立ち上げた。長く靖国神社問題に取り組み、現在は東日本大震災の被災者支援にも大いに力を注いでいる。
 本書は3部構成である。題名はそのままホームレス支援に関わる著者の叫びであり、祈りである。決意表明と言っても良い。T部は著者の自己紹介である。生い立ちから始まり、牧師への軌跡が語られる。U部は「ホームレスとはだれか」との問いから始まり、22年の活動で1,200人の自立を支えたホームレス支援の現場から喜びや悲しみの具体的な出会いの報告が続く。一つ一つが重く深い課題を投げかける。愚直に人を丸ごと受け入れる著者の生き方は涙なしに読むことができない。「そこまでやるか?」と思うほど、著者は生活すべてをかけて一人に関わる。私は実際の彼の生活を知っている。この本に誇張も嘘偽りもない。V部では自己責任論社会の問題点を突き、優れた説教「荒れ野の食事」が展開される。
 著者は、自分に厳しい問いを突きつける。逃げていないか? 賢く生きすぎていないか?と。愛するとは、その人のために傷つくことも含まれる、絆には傷が含まれる、と著者は言う。説得力があり、人を励ます力に満ちている。
 読み終えて還暦を過ぎた牧師である私の中に力と希望がみなぎっているのに気づいた。励まされ、「もう一度頑張ろう」という気持ちにさせられた。本書は優れた聖書解釈の本でもあり、牧師と教会への応援歌と言っても良い。関田寛雄先生は推薦の言葉の中で、本書の内容を『絆の神学』と呼ばれた。無縁社会に如何にして絆を作るか、という著者の挑戦は続く。

(評・田口昭典=日本バプテスト連盟金沢キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年6月26日号 =5面=掲載

『イエスとその目撃者たち−−目撃証言としての福音書』

リチャード・ボウカム著(新教出版社、7,980円税込)

 著者は、英国の聖書学の第一人者。本著は、2007年度Christianity Todayのブック・アワードを受賞し、2009年には英国の聖書学に最も功績のあった研究に送られるマイケル・ラムゼイ賞を受賞。欧米における評価の高さが窺える。
 本著の副題に「目撃証言としての福音書」とあるように、著者は、新たな福音書の読み方を提案している。過去200年の史的イエスの研究は、「様式史批評」の方法論に基づいてきた。福音書の背後に口伝様式の純粋形を想定し、伝承の変容過程(伝承史)に教会の神学を見つめようとした。伝承モデルとして参照されたのは、民族学者らによる口述伝承研究であった。そこでは、伝承の起源は、特定の個人にではなく「共同体」にあるとされ、口伝内容は共同体の事情によって自由に改変されると想定された。
 著者は、それに代わる伝承モデルとして、ビルガー・イェルハルドソンと、ケネス・ベイリーの口述伝承過程の研究に注目する。前者はラビ・ユダヤ教の、後者は中東村落に見られる口述伝承の研究である。そこでは、口述伝承の保存と安定のために働く制御機能が認められる。伝承保存の制御機能は、目撃者自身の「記憶」にも、彼が、事実とともに意味(証言者自身の解釈と評価)を加えて構築する「証言」そのものにも働くことを著者は指摘する。目撃証言への拘りは、ヒエラポリスの司教パピアスの文献(エイレナエオス『教会史』に引用された『主のロギアの解説』)にも観られるし、福音書自体にも確認できる(cf. 使徒1・21022、10・39042、ルカ1・104)。
 福音伝承の在り方は、したがって様式史批評が前提とした事情とはだいぶ異なっていると言わざるを得ない。そこで、「目撃証言として福音書」を捕らえ直すことで見えてくる新たな地平があるのではないかと、福音書の史実性の復権を新たに提案する画期的な本である。

 (評・遠藤勝信=日本同盟基督教団小平聖書キリスト教会牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2011年6月19日号 =9面=掲載

『神を信じて何になるのか』

フィリップ・ヤンシー著(いのちのことば社、2,100円税込)

 本書を読み終え、ずっしりした充実感と著者への感謝の念が生まれた。重い内容だが、山の峠に立って深呼吸するような、見通しよい希望を抱くことができた。著者は福音派の代表的な著作家、神学者と言えよう。その独自性は書物に埋もれた観念論で終わるのでなく、世界の現実に身を置き、命がけで取材し、ときにショッキングな実話を引いて読者の目を覚まさせ、さらには過去の教会が行った犯罪や聖書の歪曲も隠さず言及する点だ。
 世界中を訪問しての10回の講演を核にした本書は、米国、アジア、アフリカを舞台にして、驚くべき多様な内容と洞察で満ちている。先進国の堕落、貧しい国の悲惨、テロ、乱射事件、依存症、人種差別、大災害など、人間を貶める過酷な世界で、神はいったい何をしているのかを、当事者を前に語っている。
 いまや世間では、宗教は過激派を生み出しかねない恐怖の対象の一つになった。しかし著者は、貧困がはびこる国で、抑圧下に置かれた厳しい環境下で、富んで俗化したキリスト教国には見いだし難い神の働きと信仰を照らし出す。そして、人集めの「繁栄の福音」に頼る必要はないことを証明する。私たちの課題は、律法主義と差別、偏見など、「恵みにあらざるもの」を克服し、自己満足な狭い世界に埋没せず、この世にとって想定外の神の愛と恵みを表す場に教会がなることである。
 いま国難と言える大災害の中、塗炭の苦しみに数多くの同胞が直面している。著者の主張は、この災禍の現実に臆せず向き合い、利己的なふるまいや悪に屈せず、教会が癒しのコミュニティーになることである。たとえ小さな働きでも、傷つき、弱った人々を歓迎する場となり、私たちを通して神が働いてくださることに召されているというのだ。著者は、今回の震災に心を痛めつつ、早急な結論づけをしないようにと警告し、世界中のキリスト者が私たちと共にあることを忘れないようにと、感動的なメッセージを本書に寄せてくれた。

(評 小渕春夫=出版社あめんどう代表)
週刊 『クリスチャン新聞』 2011年6月12日号 =5面=掲載

『新約聖書のモラル・ヴィジョン』

リチャード・ヘイズ著(キリスト新聞社、1,890円税込)

 本著は同名の大著に基づく4回の講演の記録である。聖書を神の言葉として丹念に読み、みことばに基づいて「共同体を健全に形成する」ためには何が必要なのか、新約聖書学とキリスト教倫理学の関係について緻密な分析と実践が示されている。みことばを「読む」ことからみことばを「生きる」ことへの道筋を示している。
 1章では、方法論に関して、歴史的、民族的、道徳的、現代的、共同体的などのアプローチを論じた後、「聖書を、世界の和解のために神が行った恵み深い行為を物語るストーリーとして読」み、「その中で自らの方向性とアイデンティティーを見いだす」こと。1世紀の新約世界と現代世界とを結ぶためには、その隠喩(メタファー)を見抜く「イマジネーションの働き」が必要であることを述べている
 2章では、記述的、総合的、解釈的、実用的という四重の作業について解説し、新約世界のモラルヴィジョンが21世紀の私たちに何を語りかけているのかを、「教会、十字架、新しい創造」という3つの焦点イメージによって示す。聖書を「理解する」とは、それによって私たちが「変えられ、世界についての私たちの見方(vision)が作り直されること」を意味すると主張する。
 3章では、史的イエスの問題を、@受肉の教理、A終末的保留、Bイスラエルの民の重要性という点から論じ、N.T.ライトの説を評価する。
 4章では、現代的適用の一例として女性の役割を取り上げ、「男性と女性が完全な協力者として、新しい創造を体現するような世界」を聖書は力強く描き出していると指摘する。
 現代のさまざまな解釈学的な問題が、簡潔、的確に論じられており、みことばによって形成される共同体としての教会をめざす筆者の熱い思いが伝わってくる。さらに訳者の詳しい解説と的確な注によって、ヘイズの優れた洞察とその背景にあるものを理解することができる。

(評・岡山英雄=JECA・東松山福音教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年6月5日号 =10面=掲載

『今日のキリスト教教育の可能性を問う』

片山信彦ほか共著(いのちのことば社、735円税込)

 昨年、玉川聖学院は創立60周年を迎え、「今日のキリスト教教育の可能性」を主題に記念シンポジウムを開催した。本書はその記録をもとに加筆されて刊行された。
 シンポジウムの目玉はパネリストにキリスト教教育の専門家ではなく教育に隣接する分野の第一線で活躍している専門家を招いたこと。司会者の水口洋氏はその理由を、いま教育の現場が傾聴すべきは「臨床の知」にあると述べているが、まさに正鵠を得た選択である。水口氏の期待に応えて、4人のパネリストはキリスト教教育に求められているものは何か、斬新な切り口で新たな教育の可能性を切り拓いてみせたところにこのシンポジウムの真骨頂がある。
 ワールド・ビジョン・ジャパン事務局の片山信彦氏は、キリスト教教育の使命として世界の問題に立ち向かう人材を育てるために自分の国だけでなく、人類全体の問題に向き合える人材を輩出してほしいと願う。児童精神科医の田中哲氏は、キリスト教教育は子どもたちに物事を考える骨組みとしてもっとも大事な精神を外から枠づける働きがあるとした上で、さらに内側からも愛するという働きかけが可能であるところに固有の役割があるとする。社会福祉法人新生会の原慶子氏は、玉川聖学院が実施しているワークキャンプでのお年寄りと子どもたちとの交流に着目し、人格的なふれあいを通してスピリチュアリティの回復を目指す教育を提案している。牧師の藤本満氏は玉川聖学院が教会出席を奨励するだけでなく、地域の宣教を共に担ってきた姿勢を評価し、今後も教会と協力しながら相互補完的な関係を築いていくことに大きな期待を寄せている。以上の提言を教育の場に取り込み、どのように仕掛けていくかが課題である。
 創立以来、キリスト教教育を実践してきた学校のマニフェストとも言える本書から、読者は新たな教育の可能性へと促し導くヒントを得ることができるだろう。
(評・本田栄一=桜美林中学・高等学校校長)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年5月29日号 =5面=掲載

『健全な信仰をどう育てるか』

丸山昌也著(いのちのことば社、1,260円税込)

 現代ほど「健全な」キリスト者、教会が求められている時代はありません。「聖書的」「福音的」「霊的」「信仰的」という「ことば」があまり吟味されることなく用いられ、自分と他人をさばくことになって「不健全なキリスト者」「不健全な教会」が生まれてしまっているのではないでしょうか。このような時に「健全な」本を著してくださったことを感謝致します。
 一読し、私なりに感じた「健全な信仰」について記します。第1に「バランスのとれた信仰」であるということ。神のみこころと人間の努力、福音と律法、知ることと行うことなどの相互の関係性やバランスが大切です。
 第2に、「プロセスを大切にする信仰」ということ。「みことばが与えられ、神のみこころだと確信している」と言いつつ、その神のみこころが行われるためにどのような「プロセス」が必要なのか、それを妨げているのは何か、どうすればそれを解決できるのかを考えないで、「みことばが与えられたから、祈っていればよい」と考えることは健全な信仰ではありません。「罪を悔い改めたから、赦された」ということで何回も同じ罪を犯し続けるのは、罪を犯す自分の弱さを見つめ、罪を犯す原因を自分の人格の中に見いだそうとしないからだとの指摘をしています。
 第3に、「関係的」であるということ。神との関係は、夫婦、親子、教会の兄弟姉妹など、他の人々との関係と結びついています。神との関係が深まると家族をはじめ隣人との関係が深まり、隣人との関係において自分の罪と弱さを覚えさせられ、また主に信頼しつつ隣人との関係を深められていくと神との関係も深まるのでしょう。
 結論として、著者は「健全な信仰は、必ず成長する信仰である」ことを強調し、「健全な信仰の霊的な習慣を身につけ、霊的なライフスタイルを確立する」ことを提唱した、と述べています。
 多くの牧会者とキリスト者が「共に」読み、祈りつつ話し合うための適切な本だと思います。

(評・坂野慧吉=浦和福音自由教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年5月22日号 =9面=掲載

『小さなツッコミ、大きなお世話』

水谷 潔著(いのちのことば社、1,260円税込)

 男女関係については、永遠のテーマ。でも、誰に聞いたらいいのかわからなかったり、お決まりの答えを受け入れられず、ひとり抱え込んでしまいがちです。私も高校生の時、正しい答えであっても押し付けられると大きな抵抗を感じてしまいましたが、自分で考えていくきっかけや助けを与えてくれる情報は聞きたいと思っていました。
 そういった意味で、恋愛、結婚、性といのちについて、重要な問題点にユーモアを交えてツッコミ、ツッコまれた側も納得しつつ自分を省みることのできるこの本は面白い。実際、私が高校生と話し合う時、水谷潔先生の本からの情報も、ユーモアな論じ方も参考となっています。
 特に、印象に残ったのは、『「好きになる→告白する→付き合う→セックスする→別れる」というパターンを繰り返します(70頁)』と、紹介(指摘?)されている現代の恋愛模様。確かに、身近にある恋愛パターンです。この恋愛パターンを生み出している原因について『「情欲に溺れさせるシステム」が、日本社会の隅々にまで張り巡らされています。インターネットやマスコミを通じての性情報などは、その代表。(66頁)』と指摘されています。そのような現代において問われているのは、それでは、私たちはどのような情報に基づいて歩んでいるのかということです。
 この本は3部構成となっていますが、その最初に「結婚」がテーマとされているのは、結婚と恋愛を切り離して考えてしまうこと自体が、「情欲に溺れさせるシステム」の入り口になってしまうからでしょう。そういった意味で「結婚」についてまず考え、恋愛、性、そしていのちと順を追って正しく学ぶべき情報を届けてくれるこの本は、歪んだ現代社会の中で本当に祝された結婚生活に歩むための必読の書と言えるでしょう。
 若い方はもちろん、若者にわかりやすく聖書的結婚観を伝えたい方にも、自分自身の結婚生活をより良くしたい方にも、あらゆる方におすすめしたい本です!

 (評・鈴木雅也=Hi-b.a.高校生聖書伝道協会協力スタッフ)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年5月8日号 =9面=掲載

『順風よし、逆境もまたよし』

佐藤 彰著(いのちのことば社、1,050円税込)

 東日本大震災。誰がこのような大震災を予想できたでしょう。ところが、主はこの時、不思議なことをしておられます。ちょうどこの時に合わせるかのように、『順風よし、逆境もまたよし』(想定外こそ想定内!?)という題の、この本が出版されたのです。著者の佐藤彰先生も、また出版社のいのちのことば社も、この本が出版される時にこのような大震災が起きることなど知ることも、予想することもできなかったことでしょう。まさに、全てをご存知の主が、この時のために備えて下さっていた、主からのメッセージであると言う以外に説明できないと思いました。
 さらに、何と地震が起きた3月11日はこの本の著者、佐藤彰先生の54歳のお誕生日だった、とお聞きしました。主が特別にお選び下さって、この大試練の時に、主の慰めと励ましを与え、さらに新しい日本を生み出す力を与えるために、このメッセージを備えて下さっておられたのだと思います。
 この本の文章は、著者が2006年4月から2010年12月の4年間、「恵みの雨」誌の巻頭言に載せた文章であり、その文章をいのちのことば社が新生宣教団の許可を得て、1冊にまとめたものです。4年間、私も「恵みの雨」の愛読者として読ませていただき、多くのことを教えられ、励まされてまいりました。しかし、いまこの時に1冊の本にまとめられたものを一気に読んでみた時、主が確かにこの時のために備えて下さった、復活の主イエス様からの慰めと励まし、そこから始まる日本を復活させて下さるメッセージであると思わされてなりません。
 全てのクリスチャンに、否クリスチャンだけではなく多くの人に読んでいただきたい必読の本です。ぜひ読んでみて下さい。そして、お友達にも推薦し、一人でも多くの方がこの本を読んで、主イエス様からの日本復興の力、リバイバルの力を受けていただきたいと心から推薦いたします。

 (評・千田次郎=保守バプテスト同盟恵泉キリスト教会米沢チャペル牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年5月1日号 =9面=掲載

『歴史のイエスと信仰のキリスト』

アリスター・E・マグラス著(キリスト新聞社、4,725円税込)

 本書は著者アリスター・E・マクグラスが英国オックスフォード大学において行った講義の内容を、本にまとめたものの改訂版である。19世紀から20世紀にかけ、私たちキリスト教会に最も強く影響を及ぼした「啓蒙主義」に関する講義録(または論考)である。啓蒙主義がドイツにおいて、また広くはヨーロッパ・世界に広がるキリスト教神学(特にキリスト論)にどのような影響を与え、どのような功罪を生んだかを、その時代を導いたドイツの神学者たちに焦点を当てながら重要なポイントをまとめている。これらの神学者が残した資料は膨大なものであるが、それらを読者が理解しうるような形でまとめて紹介している。
 これまでも日本では同じような論点でまとめられた書物や論考集が存在する。それらと本書との違いは、細かなヨーロッパの国々における神学形成の違いを丁寧に取り扱っている点ではないだろうか。特にドイツ、英国、フランスにおける哲学・神学の形成の特徴に触れ、その違いが少なくとも21世紀の今日の教会の現状にも表れていることを示唆している。その背景には2つの戦争(世界大戦)を通してどのように神学的課題と向き合い、どのように信仰を貫いたかなども含まれているのである。
 ドイツにおけるプロテスタント神学は日本の教会にも多大な影響を及ぼしたことは言うまでもない。ドイツの神学者たちの誰を師事し誰を退けたかは多様である。著者はそれらの試みが現在の教会にどのような足跡を残したかを謙虚に考え、そしてそこから再形成を目指して歩み始めることを読者に勧めていると思われる。「神学の課題は変わるかもしれない。しかし、イエス・キリストは、昔も、今も、そして永遠に変わらないのである」との結語は今を生きる私たちへの問いであり、同時に答えでもある。神学教育の現場で歴史神学の教科書として用いられるように書かれているが、近・現代のプロテスタント神学に興味のある方々にぜひ読んでいただきたい一書である。
 (評・具志堅聖=日本福音同盟・前総主事)


週刊 『クリスチャン新聞』 2011年4月24日号 =5面=掲載

『クリスチャン女性の生活史』

川村清志著(青弓社、2,010円税込)

 明治から平成の100年を、キリスト者として歩んだ女性、丸山琴氏の記録である。著者の川村清志氏は彼女の孫に当たり、聞きとり、資料調査、歴史的背景などをもとにライフヒストリーとして再構成したものである。非信者の目から見たキリスト者女性の生き方とキリスト教への眼差しとしても考えさせられる書である。
 彼女は1907年に奈良市内の商家に生まれ、奈良女子師範学校時代にキリスト教信仰を持ち、小学校教員となり、信仰により24歳で牧師丸山栄と結婚し名古屋で伝道の生活に入る。
 奈良という保守的な色彩の濃い土地で高い教育を受け専門職を持ち、当時としては珍しい自立した女性の生き方としても魅力的だが、その中にある歴史や当時の教会の状況の貴重な証言である。当時のいくつかの教派で、聖潔や「聖霊のバプテスマ」を強調することが、ともすれば「個々人の内面を追いつめ、場合によっては極端な潔癖主義へと向かう傾向」であったことの指摘や、信仰を内面化させ、ある種の徹底を強いる傾向が、戦争に向かう中で、「皇道的基督教」のように時勢に迎合していった原因の一つではと考えさせられる。
 また、教派による微妙な教理の違いや当時の教会の雰囲気、必ずしもエリートでない夫と共に信者をまとめていかねばならない牧師夫人としての苦労や、宣教師との関係、また台所の苦しさや夫との関係など、教会史という視点では見ることのできない現実の信仰生活の一面を伝えている。当時の日本人と共通する戦争体験もすさまじい。苦労して手に入れた家を「建物疎開」で壊され、また戦争時の混乱で教会の財産が失われたことや牧師が当時特高警察に監視されていたことなどは、国家の教会に対する姿勢を見ることができる。とりわけ戦争で医療の不十分ななか、幼い二男を死なせたという個所は痛ましい。
 若干の名称の誤りが見られるのは残念だが、日本の教会や信仰を考える点で様々な素材を提供してくれる良心的な本である。
(評・森田美芽=大阪キリスト教短期大学准教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年4月17日号 =9面=掲載

『癒しを求める魂の渇き』

窪寺俊之著(聖学院大学出版会、1,890円税込)

 本書は聖学院大学総合研究所カウンセリング研究センターに設置されたスピリチュアル研究室の研究活動を中心にまとめられた4人の専門家の講演集である。内容は「スピリチュアリティとは何か」を巡っての理論と実践についてそれぞれの研究や臨床の現場から述べたものである。
 現代はスピリチュアリティへの関心が高まっており、様々なところで言葉が飛び交っているだけに、幾らかでも関心のある人にとって、書名と執筆陣を見ただけでも興味をそそられるであろう。
 窪寺俊之氏(聖学院大学大学院教授)によれば、スピリチュアリティとは「大きな存在、聖なるもの、超越的なものと私がかかわっているかかわりの中で自分の人生を『枠づけ』ているもの」だという。柏木哲夫氏(金城学院大学学長)はスピリチュアルという言葉にこだわり、「『魂』という言葉が一番スピリチュアルに近いと思っています」と定義づけに慎重である。島薗進氏(東京大学大学院教授)は「スピリチュアリティというのは宗教の個人的側面をあらわす言葉」としつつも「だれでもスピリチュアリティがある。スピリチュアルな次元があるというのはある程度言えることです」と。
 平山正実氏(聖学院大学大学院教授)は「スピリチュアリティの本質は何か。それは聖なるもの(Holiness)、健康(Health)、全体(Wholeness)、癒やし(Healing)という概念から成り立っていると思います。…本来、人間は、こうしたスピリチュアリティに感応する性格を持っています」と語る。
 こうして見ると、現代のスピリチュアリティという概念は人間学的、また宗教的なものが総合された広い意味を持つものと考えられる。いずれもスピリチュアルケアの真剣な実践・臨床を踏まえての認識であるから学ぶ価値は大きい。将来は主として医療の世界を背景に出てきたスピリチュアリティとキリスト教モデルのスピリチュアリティとを言葉の上でも擦り合わせていく必要のある事柄であるが、その作業のために是非とも熟読したい本である。

(評・堀肇=鶴瀬恵みキリスト教会牧師、ルーテル学院大学非常勤講師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年4月10日号 =5面=掲載

『精神科医の見た聖書の人間像』

平山正実著(教文館、1,890円税込)

 現代の精神医学界において、とりわけ「宗教(信仰)」は誤解を生みやすい。こうした中、敬虔な信仰者であり、学者、日本屈指の精神科臨床医として長年活躍しておられる著者は、宗教についての正しい理解を促し、信仰が持つ意義、精神病理との関連性を解明し、一般の医療従事者と病を持つ信仰者との橋渡しの働きに奮闘された。
 特にうつ病などの気分障害においては信仰の果たす役割は大きく、そのことを医療従事者が理解した上での適切な精神治療の必要性、さらにそこに聖職者によるたましいの正しい導きが加わり、結び合わされた時にこそ、真の癒しが実現すると主張してこられた(『聖書と精神医療 第23号』聖書と精神医療研究会、2008年)。そしてその功績は2008年、日本福音功労賞の顕彰という形で評価を受けたほどである。
 本書は、そのような著者が聖書の中に登場する様々な人物の生き方を通し、現代の信仰者にも見られる共通の人間像を浮き彫りにした良書だ。旧約のアブラハムから新約のイエス(イエスについてはその人性について言及されている)とその弟子たちに至るまで、登場する人物は実に幅広い。ヨブなどの今までもよく取り上げられる人物の名も挙げられるが、ギデオン、ヨナについての言及はその着目点も含めてとても興味深い。またその視点は、人間の持つ罪の姿を凝視することを忘れず、かつそれを「すべての人間が持つ弱さ」として見る優しさも兼ね備えている。おそらくその姿勢は著者の臨床医としての姿の反映なのだろう。
 さらに信仰の持つ「聖」や「義」、「贖い」の概念が治療場面においていかに導入され、生かされているかが本書を通して明確に示されている。喪失体験や義と愛の狭間での葛藤を通して生じた自分の弱さの自覚と悔い改めの意識、そして神の癒しと赦しを受け入れ、やがて新しい「いのち」へとつながるプロセスが、まさに真の人間像の回復であることを、本書を通して改めて教えられる。

(評・上山要=日本バプテスト・バイブル・フェローシップ・幕張聖書バプテスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年4月3日号 =11面=掲載

『「放蕩」する神』

ティモシー・ケラー著(いのちのことば社、1,365円税込)

 何とも刺激的なタイトルです。実は、書店で目にしたとき、この表現に反発のような違和感を覚え、興味を惹かれながらも買うのをためらってしまいました。すると幸い、書評の依頼が舞い込んできました。そこで不遜にも、読んでもいないうちから、「批判的なことも書かせてもらいますよ…」と言いながら引き受けてしまいましたが、吸い込まれるように一気に読み終え、今まで漠然と感じていた疑問に明確な答えをいただけたような爽快感を味わうことができました。この本には、そのような知ったかぶりの信仰者を「福音」の原点に立ち返らせる説得力があります。
 この書で用いられている「放蕩」とは、英語で、「浪費する」とか「気前の良い、惜しまずに与える」という意味の形容詞です。そして著者は、「放蕩息子のたとえ」を、前後の文脈を大切に丁寧に解き明かしながら、多くの人々が抱く道徳主義的な信仰理解の誤解を正してゆきます。その上で、このたとえが、放蕩で身を持ち崩した弟息子のような人への慰めである前に、兄息子のような当時の宗教指導者に真の悔い改めを迫るイエスの対話であるという点を強調します。そして、兄息子の問題は、「正しすぎた」ことにあり、罪とは、何よりも自分自身を救い主、支配者、裁判官として、神の立場に置くことにあると明快に語ります。
 ニューヨークでの都市型伝道者的な視点からの米国の保守的な教会への批判が少々気になりますが、最終章ではオーソドックスにマルティン・ルターに立ち返りつつ、「福音とは、クリスチャン生活の初歩ではなく、すべてである」と強調します。なぜなら、多くの信仰者が、信仰の成長を願うあまり、兄息子のように自分の力で神の恵みを勝ち取ろうとする落とし穴にはまってゆくからです。
 最後には、罪の深刻さを理解しない「安価な恵み」の信仰理解の問題をも指摘しながら、神のあわれみとキリストが負ってくださった犠牲の大きさを深く味わうことこそ、信仰生活の土台とされ続けなければならないと強く勧められます。

(評・高橋秀典 立川福音自由教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年3月27日号 =5面=掲載

『ルター神学討論集』

マルティン・ルター著(教文館、3,990円税込)

 今から約500年前、1517年10月31日、ドイツのヴィッテンベルグの城教会の扉に、一介の修道士マルティン・ルターによって、「95カ条の提題」が提示された。
 それは、当時カトリック教会が販売していた贖宥状(免罪符)を問いただし討論を呼びかける95カ条で、正式には「贖宥の効力を明らかにするための討論」という。それはささやかな第一歩だった。ところが歴史が動いた。これが発端となり、宗教改革運動が始まる。結果として、プロテスタント教会が誕生した。つまり、宗教改革の始まりは、もともとは「討論」の呼びかけだったのである。
 ところで今日でもそうだが、大学の授業には二つのやり方がある。一つは教師がやや一方的に語る講義形式、もう一つは教師と学生が一つのテーマをめぐって共に討論し合う演習(セミナール)形式である。ルターの時代の大学でもそうだった。つまりルターは免罪符の問題を、それが聖書から見て正しいか否かを学生や他の教師らと討論したかったのである。
 これは重要だ、と思える問題を討論する。これがルターの神学の一つのスタイルである。ルターは生涯に60の討論提題を残しているが、彼の思想を深く知るためには、この残された討論を検討することが必要となる。
このたび金子晴勇氏によって編集・翻訳された『ルター神学討論集』には、最も重要な13の討論提題が収録されている。今までわが国には、このようなルターの討論がまとめられて本になったことはなかった。実にありがたい1冊である。
 自由意志、十字架の神学、受肉、キリストの神性と人性、義認、人間論、律法、抵抗権などなどの問題。いずれもルター神学の基本テーマである。つまり、これによってルター神学の勘所がわかる。
 それぞれの「討論」には、金子氏によってていねいな解説、注、研究が付されている。もちろん内容は高度だが、ルターの思想を正しく学びたい者には必読の書と言えよう。

(評・江口再起=東京女子大学教授)


週刊 『クリスチャン新聞』 2011年3月20日号 =9面=掲載

『私は耕す人になりたい』

榎本 恵著(マナブックス、1,050円税込)

 この本で著者は、とことん捜し求め、ひきよせ、ご自身の愛のうちにだきしめてくださるキリストを指し示す。著者にとって、それは母の愛と祈りを通して現実のものとなった。どこまでもあきらめないで祈り続ける母君とアウグスティヌスの母モニカとを重ね合わせ、母の愛に触れた時はまた神の訪れの時でもあったことを語っている。「私の中で何かが変わった」と5章に記している。そのとき、今までのすべてのものが、神の光の中で新しい意味をもって統合されていき、今の「聖書に聴き、祈り従う生活」へ人々を向かわせる召命へと導かれる。
 著者は15歳のとき、父君、榎本保郎牧師の突然の壮絶な死に出合う。悲しみが怒りに、そして失望に変わる。まるで機関車を失った貨車のようだった、と振り返る。「アシュラムが父を殺した」と本気で思っていた彼、「祈りなんて」とうそぶいていた彼が、30年を経て父君と同じ道を歩み、早天にいのちを燃やし、アシュラム運動に献身している今、神の摂理の不思議さに思いを潜める。
 2章の「秘すれば花、受け継がれていく遺伝子」では、父君の信仰を「必ず責任は神がとってくださると信じて委ねていくこと」と書き表しながら、著者自身の過去の歩みにも根底に同じものがあった、と気づいていく。1章の題は「記憶の彼方から聞こえてくる声」。その声に耳を澄ませて、主が記念せよと言われた聖餐の場面に至る。そして、今そこにおられる主を思い起こすこと、愛の原点に焦点が合っていく。6章では、アシュラム運動を「美しい静かな革命」と呼んだスタンレー・ジョーンズ博士の言葉が説き明かされる。緊密に編まれた交わり=霊交、すなわちコイノニアを教会に取り戻す働きであること、密室の祈りとみことば聴従を旨とすること、が語られる。
 私も、毎朝の早天とコイノニアに生かされている者として、私のうちに、教会に、日本の国に「美しい静かな革命」が起こっていくことを著者と共に祈るものである。

(評・唄野絢子=単立・堺大浜キリスト教会員)


週刊 『クリスチャン新聞』 2011年3月13日号 =5面=掲載

『「バルメン宣言」を読む』

朝岡 勝著(いのちのことば社、1,050円税込)

 「21世紀ブックレット」にバルメン宣言! 感慨深い。第二次大戦下のドイツ告白教会の金字塔とも言われる「バルメン宣言」については、ナチスとの闘争やバルトの起草といった成立の事情からか、公権力との対峙や、神学の探求に関心のある人々による解説が多く出版されてきた。それらの先行研究に多くを負いつつも、聖書信仰のテイストを盛り込み、しかも若い学生らとの学びの成果として出版されたのが本書である。
 全体は、歴史的な背景とバルメン宣言全6項の解説、戦後ドイツの罪責告白と日本の教会とのかかわり、という流れで構成されている。そしてバルメン宣言各項に共通の、聖句の提示、信仰の宣言、誤った教えの排斥、という構造に即しながら解説が加えられている。それらは骨太な内容で、中でも聖句の説き明かしは、簡潔ながら読む者にある種の緊張を呼び起こすような、本書の性格を規定するものと言える。例えばそれは、宣言第5項の「聖書は我々に語る」という視点は、聖書信仰を標榜する者には当然のことかもしれないが、それではその教会は語るべき言葉を獲得しているかという、著者の問題意識によるのだろう。
 また、バルメン宣言をめぐる私たちの問題の一つは、やはり日本の教会とのかかわりであろう。本書でも、同じ第二次大戦下の日本の教会の問題点が挙げられているが、では今日の日本の教会の問題とは何か。その危機感にリアリティーがなければ、バルメン宣言は単なるお手本にとどまる。これまで、いわゆる福音派においてはあまり取り上げられてこなかったバルメン宣言だが、要点は教会の信仰・福音理解であることを本書は明らかにしようとしている。
 私たちが聞くべき言葉は何か、語るべき言葉は何か。それを真摯に問う本が「21世紀ブックレット」に加えられたのは実に喜ばしい。本書を通じて、バルメン宣言の理解が深められることを、そして「神の唯一の言葉」に聞く、「告白に生きる信仰」者の交わりが広まることを期待したい。

(評・上中栄=日本ホーリネス教団鵠沼教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年2月27日号 =9面=掲載

『牧師の読み解く 般若心経』

大和昌平著(YOBE,Inc.、1,575円税込)

 「おじいちゃんから、般若心経を教えてもらうんですよ」と、ある日、父から突然言われた。広い本堂の隅に机を置いて、兄と並んで祖父の前に座った。いつもは気楽に遊んでくれる祖父も、その時はさすがに、大僧正という、僧侶で最も高い位についた人物としてしか私の目には映らなかった。僧侶の道を歩み始めた中学生の私が、般若心経に正面から相対した、最初の時であった。
 本書を読み始めたとき、私の中で、この時の記憶が鮮明によみがえった。この本がまさに、大和昌平先生が般若心経に正面から向かい合った記録であったからだ。
 般若心経について書かれた他の本と同じように本書も、仏教の基礎知識、および般若心経の解説から始まり、その経文を詳しく説明するという形になっている。ところがそこに、キリスト教信仰と聖書の言葉が、実に自然と重ね合わされている。
 また著者は、「般若心経偽経説」まで取り上げている。仏教学では、インドで成立した経典を正統とし、中国で作られた経典は偽経として区別している。般若心経は正統な経典とされつつも、一方で、この経典は偽経だという斬新な説がある。私も以前、大学院の仏教学研究室で新しい説を得意になって発表したとき、「そのようなことは偉い先生になってから言え」と教授に言われた記憶がある。やはり仏教の世界にいると、その組織の目に見えない圧力に影響される。しかし大和師は、仏教学という世界からは完全に自由であり、同時に、真剣に般若心経に向かう者であるという姿勢から、このような思い切った説も取り入れて筆を進めている。
 般若心経は短い経典であっても、日本に伝わった大乗仏教の基礎である「空」を説きながら、さらに仏教の基本的な用語を含む経典であるため、最も広く読まれている。その経典を牧師が信仰を注いで解き明かしている。その故に、私はこの書物を読み終えた時、「純粋にキリスト教と仏教が出合っている」という深い感動を覚えた。

 (評・松岡広和=単立・のぞみ教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年2月20日号 =5面=掲載

『パウロの生涯と聖化の神学』

岩上敬人著(日本聖化協力会出版委員会、3,990円税込)

 今日のクリスチャン・教会の最大の危機は、内なる危機、すなわちアイデンティティー喪失の危機である。
 クリスチャン・教会が激しい世俗化の波に浸食されて沈没するか、それとも波の上に姿をあらわし希望の光を輝かせるかは、クリスチャン・教会が「聖なる民」であるというアイデンティティーをどれほど真剣に受け止めているかにかかっている。
 本書は、パウロが宣教と教会形成の中で苦闘してきた問題の核心が、この「聖化」の問題であったことを、説得力をもって示している。キリストへの信仰によって神の契約に加えられたクリスチャンは、「聖なる民」である。しかしパウロが強調して教えたのは、そこからさらに進んで、聖なる者とされたその実質に生きることであった。
 では、そのような「聖なる歩み」は、いかにして可能となるのであろうか。その具体的・実際的な姿とは、どのようなものであろうか。
 これらの問いに対するパウロの答えを、著者は聖書学の最新の成果(手紙の修辞学的構造や、手紙の背景となるパウロと受取人の歴史的状況の解明)と十分に対話しかつ適切に活用することで、立体的に浮かび上がらせている。
 もし、本書を読まれるならば、そこから今日の教会が取り組むべき課題を、読み取ることができるであろう。
 著者は、死海文書研究の世界的権威であるマンチェスター大学のジョージ・ブルック教授の下で博士論文を書かれた新進気鋭の学者である。しかし本書は、神学校の教科書として使用されることを意図して書かれたものであるため、特別な専門知識をもたない信徒の方でも十分理解できるように、実にわかりやすく懇切丁寧に説明されてある。
 日本人によるこのような優れたパウロ神学の入門書が出版されたことを、心から喜びたい。

(評・横田法路=日本イエス・キリスト教団福岡教会牧師、関西聖書神学校講師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年2月13日号 =9面=掲載

『韓国強制併合から100年』

信州夏期宣教講座編(いのちのことば社、1,890円税込)

 本書は2010年信州夏期宣教講座の記録としてまとめられたもので、5つの講演を含んでいる。
 岩崎孝志氏「近代日本が韓国でしたこと」では、日清・日露両戦争から韓国併合までの歴史的流れが要領よく述べられ、義兵・韓国併合に関する国際法上の意味・解釈、特に日韓の解釈の相違が分かりやすく説かれている。
 野寺博文氏「韓国併合100年と韓国教会」では、詳細な史料を用いて韓国併合条約調印の経緯を紹介し、表面的には見えない問題点をあぶり出すとともに、それに対する硬軟両様の抵抗活動が示されている。
 笹川紀勝氏「韓国強制併合と安重根のキリスト教理解」では、日韓両国の歴史認識の相違が明らかにされ、キリスト者としての安重根の伊藤博文暗殺の意味と理解とに言及されている。
 岩崎孝志氏「戦後日本の朝鮮・韓国観」では、この日韓関係に関する戦後の問題に視座が置かれ、韓国の解放を意味するはずの日本の敗戦に伴う国際関係の変化がいっそうこの問題を複雑にし、解決を困難にしてきた事実が指摘されている。
 結城晋次氏「朱基徹牧師との出会い」では、戦後60年余を経過した現在の日韓交流の中から再発見された日韓問題と教会の戦争責任問題に言及され、現代日本のキリスト者に自覚を促している。
 いずれも読み応えのある講演録で、1冊の本でありながら5冊分の内容を含んでおり、日韓のこの問題に関してあまり意識してこなかった者にも、問題意識を感じてきた者にも、良い指針となる一書である。何事にかかわらず、日本人はお上に従う傾向が強いが、政府の公式見解によってではなく、事実を事実として捉えた上でのより深い考察が求められている。
 本書は韓国併合問題を考えるものだが、それに限定されず、正義とは何か、組織・権力とは何か、キリスト者として自分のとるべき態度は何かなどを広く考え、日本人の思考と聖書的な物の考え方とを精査する機会ともなろう。

(評・櫻井圀郎=東京基督教大学教授)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年2月6日号 =5面=掲載

『ヨーロッパとは』

有賀 寿著(晃洋書房、2,415円税込)

 本書の著者は初代キリスト者学生会(KGK)総主事となられ、その後、すぐ書房代表として、大学生の信仰を育てるための出版事業に取り組んで来られた。本書は、日本における福音主義とは何か、その源流であるヨーロッパのキリスト教文化の全体の流れを把握しようとする試みである。
 では、「ヨーロッパとは」何か? 副題に掲げられた「パックス・ロマーナを遺産として継承するひとたち」。われわれはキリスト教をカトリックとプロテスタントの伝統を仲介して「聖書」から学んでいる。われわれは「聖書」の世界を現代に復元する試みと、ヨーロッパで形成されたキリスト教の伝統を調整するのに苦闘している。
 この苦闘を著者は本書で遂行している。すぐ書房代表として豊富な文献に出合った経験とオランダに留学された経験を交えながら、今まで注目されなかった歴史的事実が掘り起こされて興味深い。
 本章第8章で『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の著者マックス・ウェーバーの出自がユグノーの出である。ウェーバー自身も妻もボヘミアやモラヴィア兄弟団、12世紀以降のヴァルドー派の系譜に関係したという事実の指摘から、ユグノー教徒発祥の地であるフランス近代化に及ぼしたユグノー貢献の分析をなぜウェーバーが怠ったのかという指摘は重要である。
 「宗教はアヘンである」とののしったマルクスの罠を突破する知力を与えたウェーバーの『プロリン』の思想史的重要性とともに、そのイギリス、アメリカへの限定性をフランスを含めた全ヨーロッパへの拡張の必要性、さらに近代の果ての「鉄の檻」からの突破可能性の探究の鍵はここにあるのかもしれない。
 宣教は理解から始まり、共感を橋として信仰へ至らせる。ヨーロッパを理解しようとする本書は「福音とは何か」を理解する著書である。

(評・東條隆進=日本キリスト兄弟団弥生台キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年1月30日号 =9面=掲載

『メレル・ヴォーリズと一柳満喜子』

グレース・N・フレッチャー著(水曜社、2,835円税込)

 本書は女性アメリカ人ジャーナリスト、グレイス・フレッチャー氏が1967年、「THE BRIDGE OF LOVE」として出版されたものを、近江兄弟社学園卒業生、平松隆円氏の監訳により出版されました。
 ヴォーリズは1902年、トロントで開催されたSVM(海外伝道学生奉仕団)においてハドソン・テーラーの子ハワード・テーラーの夫人の証しにより日本宣教に召しを受け、1905年英語教師として来日、1919年一柳満喜子と結婚、1941年、日本国籍をとり、1964年日本で召天するまで教育家、事業家、建築設計士として活躍されました。彼の働きは今日もヴォーリズ記念病院、一粒社ヴォーリズ建築設計事務所、株式会社近江兄弟社、近江兄弟社学園と医療、建築、薬業、教育などの分野で継続しています。
 ヴォーリズの手による建造物は教会、学校、商業ビルなど1,000を超え、近年ヴォーリズ建築展が各地で開催されています。彼に関する書物はヴォーリズに感化を受けた日本人男性により多数出版され、主にヴォーリズに焦点を当てています。しかし、この著書は著者が1966年に来日して1か月ヴォーリズ亡き後の満喜子宅に滞在され、満喜子をはじめ関係者から取材されたものです。
 お殿様の娘として生まれ、文明開化の中でキリスト教教育を受け、家の中に正妻と満喜子を含めたその子どもたち、3人の妾とその子どもたちが同居する封建的藩主の家風…。それを容認できない満喜子の心の軌跡は、今までの書物には触れていなかった貴重な資料と言えます。
 ヴォーリズは戦争中に日本人になった希なアメリカ人です。東洋人排斥の中で満喜子に国籍を与えなかったアメリカを捨て、敵国の日本人になっていくヴォーリズの内面も、繊細なジャーナリストの手によって書かれています。アメリカ人女性の視点からヴォーリズ、満喜子の2人の内面を奥深く探っていき、2人の知られざる面を描いたヴォーリズ再発見の書物です。

(評・高橋博=世界福音伝道団長浜キリスト教会牧師)
週刊 『クリスチャン新聞』 2011年1月23日号 =9面=掲載

『小畑進著作集 第1巻』

小畑 進著(いのちのことば社、5,040円税込)

 黙示録講録・を読みながら、2つの場面を想起した。一つは、神学校時代(1964〜67年)杉並で過ごした祈り会。もう一つは、初任の地新潟で、黙示録7つの教会の説教を、3泊4日で聴いた修養会。
 祈り会の聖研スタイルは1節1節進む。そのスタイルは、変わらなかった。黙示録説教は、タイトルがズバリ、不撓不屈のエペソ教会、日進月歩のテアテラ教会、有名無実のサルデス教会…など絵で描くように記憶している。
 聖書に取り組む姿勢がすさまじい、というのが近くで見ていて感じたこと。ことばを追求する、人間をよく観察する、被造物世界への感動、歴史への回顧と展望。さながらピリピ4・8の勧めのように、すべての真実なことへの開かれた心。小畑牧師の周りにいた弟子たちは、自ずと強くつよく、その後を追うものとさせられた。
 刊行に寄せての丸山忠孝師が、短い紹介文に見事に言い表したように、また解説・で柴田敏彦師がこれまた簡潔に語られたように、読者は、神学者、思想家、何よりも牧師の小畑進師に、この著作の中で出会うことができよう。いや、私たちの前を歩んだ一人の先輩が、その信ずる神の御前を、恐れおののきつつ、しかし感謝、感恩に打ち震えるように(ここでは黙示録の)御言葉を語っている姿を、見ることができよう。
 祈り会での聖書の学びの終わりには、いつもこれしかないといった感じで、讃美歌が引用され、一同で祈りにと入っていった。賛美一つに、これほどの理解と情熱を示す説教者を知らない。つまりは、教会の歴史の遺産ともいうべきものに注意深いということ。これが、音楽のみにとどまらない小畑先生の世界の広がりであった。
 今、もう一度黙示録7つの教会のメッセージを読みながら、今日を生きる地方教会信徒として慰めを、励ましを、共感を、そして警告を、耳に響かせている。
 
(評・下川友也=日本同盟基督教団日高キリスト教会牧師)

週刊 『クリスチャン新聞』 2011年1月2・9日号 =13面=掲載

『病める社会の病める教会』

勝本正實著(いのちのことば社、1,260円税込)

 読者の心に湧き上がるのは「それってある」との共感、「おかしいと思っていたことが言語化されてすっきり!」との納得、「そう言われると病んでいるかも?」という気づき、「この課題から逃げてきたのかも?」という反省などの思いだろう。
 ともすれば「自分が信仰生活を送ってきた教会で説かれ実践されたこと=聖書的絶対真理」となりやすい私たち。しかし、教会は常に病める社会からの感染症によって悩まされているのが現実。だとすれば、聖書を診断基準とした定期検診や治療が必要であるはず。
 本書は信仰者個人や教会の安易な「これからも今まで通り」に「チョット待った」の声をかける良書。医療にたとえるなら、読者に病める部分を自覚させ、診断基準を示し、回復を願って治療方針を記す書物だと言えよう。
 病める部分については日本社会が持つ宗教的・習俗的要素の影響を実に的確に指摘している。この鋭い洞察力は、仏教を深く学び、福祉の働きを通じて地域社会と深くかかわってきた著者ならではだろう。
 評者自身がとりわけ切実に受け止めたのは、第3部の「教会内のこと」。取り上げられているトピックは無牧教会の増加、教会戒規の有名無実化、牧師夫人がおかれている極めて不当な立場、多すぎる教団教派の弊害面など。それらを批判としてではなく、建徳的に記していることも本書の大きな美点。
 病んでいることが問題ではない。病んでいる自覚がないまま、あるいは治療に伴う痛みを避けて、その結果、病気を進行させ、いのちを失っていくことこそが問題なのだ。神様からの「待ったなし」の声に耳を閉ざしてはならない。
 本書は、私たちが陥りやすいそうした偽りやごまかしに対してのチャレンジの書でもある。
 牧師自身も学ぶ側に身をおいて役員教育や小グループなどのテキストに用いれば、健全な教会形成に多い役立つだろう。

(評・水谷潔=小さないのちを守る会代表)